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一、貝塚

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 九十九里地域の遺跡分布を見ると、八日市場市、横芝町、多古町など海岸に近い地域の台地上には縄文時代中期以降の遺跡が多いのに対し、富里町、八街町など栗山川の奥まった支谷に面した台地には、縄文時代早期の遺跡が多い。さらに奥まった谷津に面した台地上には先土器時代の遺跡が見られる。そして海岸線が後退するにつれ、現在の海岸線に近い台地、またはその縁辺部に縄文時代後期の遺跡が発見され、そこには貝塚を伴う場合が多くなっている。多古町の境貝塚(千田(ちだ)字木城地(きじょうち))、桜宮貝塚(多古字桜宮)、千田貝塚(千田台遺跡)、木下貝塚(大原内(だいばらうち))は中~晩期のものである。
 貝塚は食用にした貝の殻の山が埋もれたもので、貝殻のほか獣類の骨、土器片なども含まれているが、大きな貝塚は貝類を保存用に煮て乾燥した加工場の跡ではないかと考えられている。干し貝は物々交換にも当てられ、石の少ない房総地方では、石器ないしその原料石との交換に重要な役割を果たしたと見られる。
 関東地方の貝塚が全国のそれの約半数を占めているように、この地方の後期縄文社会は漁撈生活を基礎として生み出されたものということができる。中でも千葉県は貝塚の宝庫といわれ、特に東京湾岸にそれは集中している。
 縄文晩期に入ると貝塚は急速に減少し、集落跡も急減している。これは房総半島全域で共通している。その理由はわかっていないが、海岸線が次第に後退して豊かな遠浅の海岸が沼地になり淡水化したためではないかと考えられている。そして人々は北へ、あるいは西へ移住していったらしく、その後の二百年、つまり弥生時代前期の房総半島は全くの空白期になっている。