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三、丸木舟

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 縄文時代には、栗山川流域一帯はほとんど大きな沼や湿地帯で占められていた。人々はそこに住む魚貝をとるために、あるいは台地間の交通のために盛んに丸木舟を使っていた。
 栗山川流域全体で現在までに五〇隻近くの丸木舟が発見されており、多古町域では九隻が主に栗山川改修の際に発見されている。

中村新田地先出土の丸木舟(縄文時代後期)

 この比較的狭い地域から集中的に出土しているのは、埋没していた地域が他に比べて泥炭層が発達していたという地質的条件にもよるが、何よりもこの地域で丸木舟が盛んに使われていたことを示している。船越・水戸(みと)(水門=港または水処・水渡の意といわれる)などの地名が生まれたのはずっと後のことであるが、この地域では時代をさかのぼるほど舟の必要度は高かったことであろう。
 昭和五十年、島地区で出土した丸木舟は約三四七〇年以前のものと測定された。これは縄文時代後期に相当する。この舟はカヤを素材にし、内側は半円形式の木取り法によってくり抜かれ、全体は鰹節(かつおぶし)形をなしている。舟首・舟尾にはそれぞれ幅一〇センチの横梁が施されていた。(補注参照)
 
〔補注〕
 千葉県は丸木舟出土数が全国でも圧倒的に多い県であるが、その半数がカヤを用いている。カヤ材の丸木舟は千葉県・埼玉県に限られている。
 
 これに対して昭和五十三年、南玉造地区より出土したものにはこの横梁がなく、でき上がりも劣っていた。この場合は発見事情から年代測定ができなかったが、これを製作技術の時代差と見るならば島地区出土のものより古いものと考えることができる。
 また栗山川支流の高谷川出土の丸木舟の場合には、付近から縄文時代後期(加曽利B式)の土器が出土しており、その形状は舟首・舟尾が欠けてはいるが、千葉市畑町出土の例と同じものとする比較研究(清水潤三氏)がある。「畑町型」は鰹節形で、縄文時代後期・末期に比定され、丸木舟研究の基準の一つとされているものである。
 なお南玉造出土の丸木舟は復元すると全長約四七〇センチ、幅約九〇センチ、舟底の厚さ二〇~二二センチ、舟底の裏面に削り跡が認められ、舟底には二、三カ所焼け跡が確認できる。焼け跡は他の多くの丸木舟でも見られるもので、製作時に生じたものと考えられている。