縄文時代の住居の多くは竪穴(たてあな)住居であった。人々は南面した丘陵の縁辺部で清水の得られやすい場所を選び、地面を円形または隅(すみ)丸方形に掘り下げて底を平らにし、数個の柱穴を掘って柱を立て屋根を葺(ふ)いた。十畳敷から十数畳敷ぐらい、五、六名から一〇人ぐらいまでの夫婦・子供でもって構成される一家族が生活できる程度の広さであった。竪穴の中央には炉が設けられた。原始生活においては火の保存はきわめて重要であり、炉は家庭生活の中心であった。
多古町多古の多古台(飯倉台)遺跡には、縄文時代早期の茅山(かやま)期の炉穴と判断できる遺構が一基認められている。ただし攪(かく)乱が激しく、明確な比較検討はされていない。