この文化は北九州の一角に生まれ、かなり短期間に西日本一帯に広がった。弥生式土器とともにこの文化を特徴づけるものは稲作の技術と金属器で、これらはみな大陸からもたらされたものであった。このためこの文化の中心は縄文文化とは対照的に西日本にあった。
縄文文化は、自然資源の豊かな東日本に発展したが、西日本は資源に乏しかったため、縄文時代には人口も東の一割以下であったと推定されており、縄文後期・晩期になると雑穀や芋類の栽培が行われるようになっていた。
しかし水稲耕作を基礎とし、鉄器や青銅器の製作技術を持つ文化が成立すると東西の立場は一変したのであった。弥生文化は東日本に入るあたりでいったん停滞したらしく、弥生時代前期の百年ぐらいは東日本ではまだ縄文時代であった。房総地方でも弥生時代前期は空白期とされ、この時期の遺跡はまだ見つかっていない。これは当時の稲の品種が東日本に適さなかったからとも、発達した縄文文化の抵抗があったからともいわれている。
房総地方の弥生式土器の出土はほとんど海や湖、大きな川の沿岸地帯に限られている。したがって多古町域で弥生時代の遺跡・遺物の発見された例はきわめて少ない。
縄文時代の遺跡の項で記したように、多古台遺跡の場合、縄文時代の炉穴遺構または土器片を含んだ土層の上に、弥生時代後期の住居跡が土器を伴って発見されているが、これは遺物の出土状況、住居跡の形、遺物の文様などによって弥生時代後期の中葉から後半にかけて営まれた住居の跡と判定されている。内容の明確なものとしては、このほかには昭和五十九年に発掘調査され、報告書が準備されている西古内新城(にいじょう)遺跡がある。
西古内新城遺跡出土の人面土器
人面土器が出土した弥生時代後期の住居跡(西古内新城遺跡)
多古台(飯倉台)遺跡の場合は、その上に土師器を伴う古墳時代の住居跡が重なり、その上に中・近世の城郭の遺物が含まれているという複合遺跡であるが、他の地域の複合遺跡では、縄文時代の遺物の上に古墳時代の遺跡が重なっている場合が多く、両者の中間に当たる弥生時代のものが発見されないのが特徴的である。
多古台遺跡で発見された弥生式土器については、北総地域、特に印旛沼南岸地域を中心として見いだされる北関東的様相をもった弥生時代後期の土器が見られ、北関東の南部、利根川流域と、本町域を含む北総地域との間に、文化的関連性があったものと考えられる。
弥生時代の住居の形は楕円形や隅丸長方形になり、縄文時代から見ると方形に近づいている。また、集落も台地上に営まれたものは縄文時代の集落と大きな変化は見られない。それに対し西古内新城遺跡の検出例では、台地縁辺部に集落は移行している。
弥生時代の水田は、一般に、灌漑に便利な山間や河川下流域の湿地を利用したものであるが、西古内新城遺跡のような台地縁辺部の住民は、その台地の下の谷の出口の湿地を水田にして耕作したものであろう。湿地は木製の農具でも耕作ができ、稲は直播であったようである。収穫は石庖丁による穂首刈で、脱穀には木製の立臼(たちうす)と立杵(きね)が使われた。
やがて水田面積が広がるとともに水田近くに住居を移すようになるが、台地縁辺の後背地では、畑作をしていたことも考えられる。弥生時代の高地性集落は主に焼畑農業で支えられていたという説も有力である。
弥生時代に稲作が導入されて人々の暮らしは大きく変化した。米は貯蔵ができるため食生活は安定したが、それまで比較的平等であった社会に貧富の差が生じた。また、開田や用水工事や水稲耕作には共同作業が必要となり、集落は定着し拡大した。そのため、強力な指導力・統制力が必要となってきて、技術や富や力を持つ者が指導者に選ばれたが、そこに支配関係が生じ、やがて首長的権力へと成長していく情勢が作り出されていった。