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一、北条塚古墳と柏熊古墳

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 東国では五世紀後半から六世紀前半にかけてが古墳の最盛期で、各地で大型の古墳が築造された。千葉県は古墳の分布数では全国で最も多く一万カ所を越えており、上総北部から下総・常陸にかけては有力な前方後円墳が分布している。君津郡富津町の内裏(だいり)塚古墳は全長一四四メートルの前方後円墳で、周囲に濠をめぐらしている。仁徳陵に似たこのような巨墳の築造は大和勢力が直接的にこの地に入ってきたことを示しており、この古墳は大和政権によって任命された国造(くにのみやつこ)の墓と考えられている。
 多古町の巨大古墳としては北条塚古墳と柏熊古墳があり、ともに前方後円墳である。
 北条塚古墳は町の東部、東松崎の松崎神社の本殿裏にある。長軸約七〇メートル、前方部は径四五メートル、高さ五・五メートル、後円部は径三七メートル、高さ六・五メートルである。立地および墳丘の形から古墳時代後期の築造と見られ、周辺からは形象埴輪の靱(ゆき)(矢を入れて背負う器)と思われる破片などが出土しているほか、神社境内に箱式石棺と思われる石材が残っている。墳形は比較的よく旧態をとどめており、昭和五十年に県史跡に指定されている。
 柏熊古墳(通称杓子(しゃくし)塚)は長軸八三メートルで、高さ八メートル、当町では最大の前方後円墳で、墳形からは四世紀末を下らないと位置づけられている。
 両古墳の被葬者はこの地域に君臨した実力者であろうが、前方後円という畿内(きだい)勢力の形態を採用していることから、大和朝廷によって任命された下海上(しもつうなかみ)国造に直属する位置にあった実力者の墓と考えられる。この国造は東下総の海上・香取・匝瑳(そうさ)の三郡と常陸の鹿島郡南部を包括する地域を統轄し、各地の中小豪族を支配していた。なお柏熊には、通称おけ塚と呼ばれる全長六七メートルの前方後円墳を始め、多くの古墳があったが、開墾によって二〇基以上の古墳が破壊され、現在残っているのは一〇基に満たない。