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三、発掘古墳と副葬品

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 多古町で発掘調査された古墳は多くないが、坂並白貝古墳群(北中)はその代表的なものである。ここには六九基の墳丘があり、当町では最大の群集墳である。栗山川をはさんで対岸の台地上には西古内古墳群、南方には神行(かんぎょう)古墳群、北方には玉造古墳群がある。付近一帯に無数の縄文式土器や土師器(はじき)の破片が散布しているので、この地一帯には相当大きな古代集落があったと見られる。
 六九基のうち円墳が最も多く、前方後円墳は九基で一割以上を占めている。昭和四十六年に調査された坂並白貝第二三号墳は前方後円墳で、石棺内に人骨二体と直刀片一振(ふり)分、小玉一九個が検出された。
 次いで昭和四十九年に調査された坂並白貝第六六号墳は、長径一五メートル、楕円形状の円墳で石棺内に人骨二体、直刀片一振分が出土した。この地域の石棺の石材は雲母(うんも)片岩か軟砂岩を用いたものが多く、この二例もそれであった。
 また、昭和五十年に調査された坂並白貝第二〇・二一号墳は、前者は直径一九・五メートルの円墳で、粘土槨が安置されており、直刀一振、刀子一本、鉄鏃(矢じり)片七本などが出土した。後者は直径一七・五メートルの円墳で、木棺が直葬されており、直刀一振が出土した。遺物はいずれも古墳時代後期に属し、両墳とも後期に築造されたものとされている。
 同じ昭和五十年、並行して坂並白貝一七・一八号墳の調査が行われた。前者は主体部が検出できず、出土した土師器から、年代は古墳時代後期の真間期(八世紀ごろ)と推定されている。後者は全長三九メートルの帆立貝型の前方後円墳であるが、墳丘は後円部の四分の一しか残っていなかったものの、主体部が四つあるという、きわだった特徴を持つものであった。その四つとも石棺は軟砂岩または雲母片岩で、その一号主体部からは人骨二体、直刀一、剣一、刀子五、鉄鏃一一、金銅張装身具一、鉄製装身具一が出土した。二号主体部からは頭蓋骨三体、直刀二、鉄鏃一三、三号主体部からは臼歯二、臼玉四、四号主体部からは個体数不明の人骨、耳輪二が出土した。

林遺跡出土の臼玉(古墳時代中期)

 四つの主体部には、構築年代の差があったと見られ、一号主体部の人骨は古墳が築造されてから後に追葬したものと考えられ、その他の所見から、もともとあった墳丘を利用して合葬・追葬を重ねたものと推定されている。
 出土品はいずれも古墳時代後期に属し、築造年代も後期と考えられている。なお周溝底部から須恵(すえ)器の大甕(がめ)が、伏せられた状態で出土している。供献されたものが後になって転落したものかと思われ、その製作は六世紀末ごろのものと推定されている。
 古墳時代後期は、一般に農業共同体から家父長家族が台頭した時代としてとらえられており、群集墳の盛行期でもあった。前期古墳が族長(首長)墓的性格のものであったのに対し、後期古墳は家族墓的な色彩が強く、伴出遺物や埋葬形態などからもその性格が付与されている。
 多古町の後期古墳は、家族墓的な色彩の中でも特にその性格が顕著で、いわゆる変則的古墳としてとらえられている。変則的というのは、内部施設が墳丘裾部に位置していて、板石を用いた箱式石棺であり、合葬または追葬を普通とするものである。
 変則的古墳はまた群集墳を形成し、東関東の中央部に分布している。そこには、被葬者の増大から追葬形態の出現へ、そして墳丘の権威象徴の失墜、墓碑化という変遷過程が考えられている。
 多古町の古墳群はこれらの諸条件に合致する点が多く、いずれも変則的古墳の部類に属すものと考えられている。昭和五十三年に発掘調査された井野古墳も同じ部類に入るが、内部の損壊がひどく、副葬品は全くなかった。封土内遺物などを検討した結果、後期古墳でも末期的要素をもつものと判定されている。