一般に古い時期の古墳には、鏡や玉類、鉄剣や鏃(やじり)、石製模造品などが収められているが、これらは死者の権威を表わすものであり、あるいは死後の霊に対する呪術的意味をもつものでもある。
これに対して後期の古墳になると、石製模造品などの呪術的品物が少なくなり、玉類や金の耳輪・腕輪・冠等の装身具、馬具、武具、土製の杯(坏)など、実用品が増してくる。
古墳の外側封土の上には素焼きの埴輪が立てられた。円筒埴輪と形象埴輪の二種類があって、円筒埴輪は封土の周囲や中腹に並べられ、封土のくずれるのを保護したものである。これが発達して後期に入ると盛んに作られるようになった形象埴輪は、人物・動物・家屋・各種器財などを模造したもので、一般に遺骸の埋葬部に近い封土に配列される場合が多い。
形象埴輪からは当時の生活や風俗を如実に見ることができるとともに、美術工芸技術の水準も知ることができる。埴輪が最も盛んに行われたのは関東地方で、特に人物・動物埴輪に特色があり、当時の人々の生活感情がいきいきと表現されている。
当町では前述のように大型古墳が未調査ではあるが、北条塚古墳周辺で器財埴輪の靱(ゆき)と思われる破片が見つかっているにすぎない。この破片は封土の上に立てられていたものの残欠と見られている。
当町の古墳からの出土品としては、前述の坂並白貝古墳群の直刀・刀子・鉄鏃・金銅張装身具・鉄製装身具・臼玉・耳輪などがあるが、北条塚・柏熊の両巨墳が未発掘の現在、出土品の種類の多さで注目されるのは昭和五十一年に調査された飯倉台古墳(多古字源氏堀)である。この古墳は、調査前には中・近世の塚と見られていたものであるが、直径一九・五メートルの円墳で、高さは築造時三メートル以上あったものと考えられている。鏡二面、双孔円板一七個、剣五個、刀子九個、鎌六個、斧頭五個、そして臼玉一、一五三個、(以上滑石製模造品)、それに供献のための招来品と考えられる須恵器の坩(つぼ)などが出土している。
調査に当たった日本文化財研究所の報告書は、出土品の内容で比較できる古墳としては、県内では千葉市七廻古墳、木更津市長州塚古墳があげられるが、種類の豊富さでは群を抜いていると述べている。ただし関東の他県に例を求めるなら、群馬県藤岡市稲荷山古墳、茨城県大洗町鏡塚古墳、東京都世田谷区等々力(とどろき)大塚古墳などには数量的に及ばないとしている。
この古墳の年代は、古墳時代中期である五世紀の後半、末葉に近い時期と推定されている。この時期は大型の前方後円墳が関東地方に出現し、政治的中心地である畿内からの影響を受けつつあった時期であって、副葬品に大陸からの影響を受けた金属製品が認められている。しかし一方では、在地の地域支配者は旧来の共同体的祭祀を行っていたと考えられ、そうした性格をもつ石製模造品の埋納も行われている。この古墳の被葬者もそうした在地勢力の一支配者と推定され、副葬品はこのことを裏付けるものと考えられている。本古墳の出土遺物は多古町公民館に保管展示されている。
この古墳と同時に調査された付近の遺跡からは、土師器時代(後述)の前期から晩期にかけての土師器が出土し集落跡も予想されるので、本古墳の被葬者との関係が考えられる。なお次浦の内野原古墳(前方後円墳)からも滑石製模造品など本古墳と類似した内容の遺物が出土している。