掘りやすく耐久性のある地質に作られ、広くて高い玄室と狭くて低い羨(せん)道を持つのが一般的で、羨道は横穴式石室に比べると短い。六、七世紀に全国的に分布を示すが、関東地方南部で急激な発展を見たのは七世紀中ごろからとされ、家族墓などとして広い階層に普及したようである。
多古町の高津原横穴古墳群(高津原字愛宕(あたご)山)は昭和四十六年に横穴三基が発見され、町教育委員会によって調査された。高津原は栗山川支谷の奥まった所にあり、遺跡はその支谷の、南面する斜面の成田層中に存在する。発見されたときは土止め工事中で、それ以前に穴がくずれて須恵器二個が所有者によって発見されていた。そのうち破壊の比較的少ない二号墳では入口から奥壁まで四七五センチあり、高さ一〇八センチの玄室は羨道より七五センチ高く段差がつけられている。羨道とその入口は砂岩切石の閉塞石により、それぞれ明確に区切られていた。玄室の壁面には手斧(おの)と思われる痕跡が認められた。屍床は東枕で長さ一八五センチ、整型された幅一〇センチの有縁が認められた。遺物としては、二号横穴より人骨片と濃紺色ガラス製小玉が四個出土した。三号横穴より出土した前記須恵器はフラスコ状の壺と平瓶である。これは、東海地方から関東地方にかけて分布する須恵器で、七世紀後半から八世紀初頭といわれるものである。
多古町には他に出沼(いでぬま)横穴群(四基)、井野横穴群(四基)、駒木台横穴群(三基)が開口しており、駒木台ではボーリング調査により約一七基が推定されているが、いずれも未調査である。
出沼の横穴古墳