土師器は赤褐色の素焼き土器で、焼成温度は弥生式と同じ八五〇度前後である。土質は細密で、文様のない実用品である。後期古墳の副葬品としては、よりすぐれた陶質土器である須恵器が普遍的で、これは大陸伝来の技術によって焼かれたものである。
土師器は平安時代以後は「かわらけ」と呼ばれて現代にも存続している。須恵器に比べ吸水性に富み耐熱性も高いため両者は並行して使用されたが、庶民の竪穴住居跡から多く出土するのは土師器である。
東国の土師器時代の前期は、埼玉県の五領遺跡にちなむ五領式土器によって代表される。この時期に西日本で高塚古墳が発生するが、関東にそれが発生するのはこの時期の終末ごろである。
次の中期は東京都の和泉(いずみ)遺跡にちなむ和泉式土器に代表され、これは西暦四〇〇~五〇〇年ごろと推定されている。この時期に関東にも、周囲に濠をめぐらす本格的前方後円墳が出現する。
土師器時代後期は鬼高式土器で代表され、西暦五〇〇~七〇〇年ごろと推定されている。この時期に大和政権と結んだ地方豪族は高塚古墳を盛んに造り、国造を称して政治的権力を世襲する、いわゆる氏姓制度を確立しようとした。
最後の晩期は、前半は真間式土器で代表され、西暦七〇〇~八〇〇年ごろとされる。後半は国分式で代表され、西暦八〇〇~九〇〇年ごろと推定されている。鬼高式、真間式、国分式の名はいずれも市川市の遺跡にちなんでつけられたものである。
多古町の土師器時代の遺跡としては、縄文・弥生時代と複合する多古台遺跡がそれであり、五領式、鬼高式、国分式の土器を伴う住居跡が少なくとも一〇〇戸以上確認されており、国分式土器をもつ集落跡も認められている。
八田遺跡(染井字正(しょう)徳院および小櫃(おびつ))は古墳時代末期から歴史時代にかけての集落の遺構が確認され、当該台地全体に集落が広がっていたものと考えられている。住居跡は竪穴七棟、掘立て柱のもの三軒、一辺が四・五メートル、または六メートルの方形で、かまどを設けている。一辺三メートルで無柱のものもある。土師器(甕(かめ)・坏(つき))、須恵器(蓋)、石製品(小玉、円板)などが出土し、鬼高期以降、真間期、国分期に属する住居跡と推定されている。
西古内新城遺跡の住居跡 上、古墳時代後期 下、同真間期
大原遺跡(喜多大原(おおばら))でも同じく鬼高期以降の竪穴住居跡六軒が検出された。一辺六・三メートルの方形で、かまどは北壁の中央部にあるものが多いが一定ではない。一辺三メートルの無柱穴のものと、他に炭窯(がま)土壙(こう)二基が検出されている。
また林遺跡(林字長井戸)では竪穴住居跡四軒が検出され、三軒が和泉期、一軒が鬼高期と推定されている。和泉期のものは中央より北壁に面して炉跡を、鬼高期のものは中央にかまど跡を有し、共に貯蔵穴が認められた。土器(甕・埦(わん)・坏)と滑石製品(剣・有孔円板・臼玉)の完成品、未完成品が多数検出され、臼玉および有孔円板の工房跡と推定されている。この遺跡に近い東側に上吹入遺跡があり、和泉期に属する住居跡五軒が検出され、内一軒は臼玉の工房跡と確認されている。