房総地方は初め総(ふさ)の国といって一国であったが、後に国造が置かれ一一国に分かれていた。当町域は後の香取・海上・匝瑳の三郡と常陸の鹿島郡南部にわたる地域を統轄した下海上国造(しもつうなかみのくにのみやつこ)の支配するところであった。その後大化改新以後、国造の制度が廃され、国郡の制度が定められて国司・郡司が任命されたときには、上総と下総に分かれていたようで、さらに上総から安房が分立した。当時の房総地方の郡名を知る資料はないが、平安時代の『延喜式』に記録された東下総地方の郡名は匝瑳、下海上、香取などとなっている。
当町の中村付近は当時の匝瑳郡の郡家(こおりのみやけ)(郡衙(が))の置かれた所といわれている。郡家は「ぐんけ」「ぐうけ」とも読まれる。当時の匝瑳郡は現在の栗源町から南、多古町域を含むため、中村郷はその名のとおり郡の中心地であったのである。平安時代に編纂された『和名抄』に「匝瑳郡中村郷」とある所である。『和名抄』に中村郷と並べて載せている玉作郷は今の南玉造一帯で、古墳時代に玉類の製作を業とした玉作部の居住した所と推定されている。(五〇ページ参照)
上野(こうずけ)国の長元元年(一〇二八)の記録によれば郡家は中枢四棟を含め二四棟、それに倉庫群があり、大領・少領・主政・主帳の四等官の下に多数の吏員が勤務していた。常陸国新治郡衙跡の発掘によれば五一棟の建物が整然と並んでおり、一般に郡家域は二~六町平方と考えられている。
匝瑳郡家は郡名となった匝瑳郷にあったとする説もあるが、必ずしも一カ所に固定していたわけではなく移転した場合もあるので、それらの発掘調査による以外にそれを確定することはできない。ただ中村のどこにあったかもまだ不明確であり、将来何らかのきっかけで遺跡の所在を示唆する遺物か遺構が発見されることが期待される。現在まで郡家跡と想定されてきたのは六所大神を一角とする一帯で、その地にあった船塚について村岡良弼著『北総詩史』は、印波国造墓と村人はいうけれど郡司の墓ではないかと疑うと述べている(地域史編北中参照)。
匝瑳郡の起こりは、『続(しょく)日本後記』承和二年(八三五)三月十六日の条に、仁(にん)賢・武烈両天皇のころ、物部小事大連(もののべのおごとおおむらじ)が朝廷より節(君命により地方に使する者が携え証拠とした符節)を賜わり、坂東を征した功によって初めて「匝瑳郡」を建て、これによって姓(かばね)としたことが記されている。これが匝瑳郡の史書に見える最初である。そして小事の子孫である下総国の人、陸奥(むつ)鎮守府将軍外従五位下勲六等物部連熊猪(くまい)に「連」を改めて「宿祢(すくね)」の姓を賜わり、本居を下総から左京二条に移すことになったことが述べられている。なお、『日本後紀』嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)三月二十日の条に、陸奥鎮守府副将軍、物部匝瑳連足継(たりつぐ)があるが、この人は、文室(ふんや)綿麻呂の蝦夷(えぞ)鎮圧に従った人である。これらのことから、当時いかに匝瑳連が有力であったかがわかる。そして『下総式社考』によれば、匝瑳大神・老尾(ろうび)神社が創建されたのも同時代とされている。