大和朝廷の統一事業は、中央・地方に散在する豪族たちの征服統合であり、それには天皇家を中心とする大和地方の有力部族の同盟が必要であったから、当然これらの有力豪族の勢力を増大させていった。
天皇家は地方豪族を服属させ、それらを国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)などに任命する際、その代償として領内の良質な耕地や軍事・交通上の要地を接収して、「屯倉(みやけ)」と称する直轄地を設けた。また部民(一種の奴隷)を屯倉の耕作に従事する田部(皇室の私有民)として献上させて豪族の勢力をけずり、地方における勢力を拡大していったが、屯倉や田部の管理統率には国造やその一族などの豪族を当てたり、中央官人を派遣したりした。屯倉は関東では六世紀に入って初めて設置されたが、大化改新(六四五)の直前には関東から九州にかけて数十カ所に及んだといわれ、大和朝廷の力が強力に地方に浸透したことを示している。そこには大和朝廷によって鉄製の鍬など新しい農具や、進んだ農耕技術が導入されたので、他の地域よりも生産力が一段と高まっている。屯倉は三宅などとも書かれ、貢納された稲を入れておく倉の意味である。その屯倉のある所を御倉(みくら)(三倉・三庫・御蔵とも書く)と称した。
多古町の三倉は栗山川をはさんで対岸に田部(栗源町)の地があり、この屯倉のあった所ではないかと考えられ、『和名抄』に載っている下総国匝瑳郡田部郷は三倉一帯も含む地域と推定されている。これらの地は中村郷にあったといわれる匝瑳郡家の所管する所であった。
このような屯倉や、中央の豪族に田荘(たどころ)(私有地)として土地を接収された地方の小豪族や、自由民から奴隷にされた部民は各地で反乱を起こした。一方、中央では有力氏族間の勢力争いが皇位継承の争いとからんで政情は不安定に陥り、ついには天皇家と蘇我氏の対立に発展した。こうした社会的動揺を押え、統一的、集権的な政治体制を整えたのが聖徳太子(五七四~六二二)の新政であった。
太子は従来の門閥政治の弊害を冠位十二階の制によって打破し、新しく人材登用の道を開いた。また十七条憲法によって政府官僚としての豪族の心構えを正し、特に天皇による国家統一とその支配の優越を強調して蘇我氏を押えたのであった。
しかし太子の死後、勢力を盛り返した蘇我氏の専制政治が強まり、そのために土地・人民を奪われた小豪族や、朝廷から締め出された貴族たちの反感が高まった。こうした反対勢力を結集してクーデターを起こし蘇我氏を倒した中大兄(なかのおおえの)皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、新政府を樹立して大化二年(六四六)「大化の改新」と呼ばれる政治改革を断行した。改新の目標は、公地公民制と中央集権制の確立であった。改新の成果は一応上がったが、制度的に確立するためには半世紀後に実施された大宝律令まで待たねばならなかった。