大化改新以後、朝廷は公地公民・中央集権の政策を積極的に推進し、この支配体制は大宝元年(七〇一)に実施された大宝律令に法制として定着した。以下、律令の概要を地方制度を中心に見ておきたい。
地方官制は全国を畿内・七道に分け、その中は国・郡・里の三段階に分けられた。中央から派遣された国司が郡長・里長を従えて行政に当たった。従来の国造の支配圏が郡に改編され、国造は郡司に切り替えられた。郡司には国司のような年限がなく、多くはその子孫が世襲した。
社会組織は、全国民が原則として五〇戸ずつ一里に編成された。この戸を郷戸(ごうこ)というが、当時の戸籍によれば一戸平均二五人前後の複合的な大家族であった。里は後に郷と改名され、郷はさらに二、三の新しい里に分割された。このとき郷戸もそれまで含んでいた小家族(房戸(ぼうこ))単位に分けられている。
国民の身分は良民と、約一割ほどの賤民に大別されたが、良民のうちにも賤民に等しい雑戸(ざっこ)・品部(ともべ)がいた。納税その他の末端の公的業務は郷戸単位に処理されたが、後には房戸が責任の主体となった。
多古町南中に郷戸(ごうぶ)の地名がある。あるいは当時の郷戸の名残りではないかといわれている。ただし現在成田市に含まれる元の埴生郡郷部村の場合、『印旛郡誌』はその名の由来を、もと山方郷として成田村と一村であったものを分郷としたためとも、山方郷の郷司が居住していたことによるともいう、としている。(補注参照)
〔補注〕
吉田東伍著『大日本地名辞書』の索引には、全国でゴウブの地名は下総国の郷部村以外には載っていない。また、郷戸(ごうと)という地名が同書には四カ所載っている。
土地制度は班田収授法によって耕地が国民に与えられ、六年ごとに割り替えが行われた。その内容は、六歳以上になると良民および官有賤民の男子には田二段(たん)、女子にはその三分の二、民有賤民には男女それぞれ良民の三分の一が口分田(くぶんでん)として班給され、死ねば収公されるというものであった。口分田のほかに畑と宅地が各戸に与えられた。貴族・寺社には租税免除の位田・職(しき)田や寺田・神田などが与えられ、経済的特権となった。
これらの耕地は条里制によって碁盤の目のように仕切られていた。条里とは、ほぼ郡ごとに設定された六町(約六五四メートル)四方の水田地割である。それを三六分割したものを坪といい、その面積は一町歩である。条里の造成には長い時間がかかるはずであるが、関東では各国の国府や国分寺の周辺にその遺構を見ることができる。
租税制度は、このように農民の最低生活を保償し確実に徴税ができることを目的とした班田収授法の上に成立している。税制は物納である租・庸・調と、徭役(ようえき)(労役)である雑徭・仕丁・兵役が主であった。
租は田一段につき稲二束二把、標準では収穫の約三パーセントで軽かったが、人頭税である調・庸と雑徭が重かった。調は土地の特産物で、房総では主に海産物と布などを納めていた。庸は毎年一定期間上京して政府の土木工事に従事する歳役の代わりに布を納めるもので、いずれも都まで運搬しなければならなかった。雑徭は公共工事の労役で年間六〇日であった。仕丁は五〇戸から二人ずつ上京して諸官庁の雑役に使われた。仕丁の衣食は他の戸で負担した。兵役は成年男子の三分の一が兵士に指名され、一定期間訓練を受けて一部は京で衛士(えじ)になり、また九州へ防人(さきもり)としておもむいた。
特に東国の兵士は三年間防人として九州沿岸の防備につくことが定められていた。この制度は百余年間続いたが、天平十年(七三八)ごろ、一年間に下総から動員された防人の数は約八〇〇名と推定されている。『万葉集』巻二十には下総出身の防人の歌十一首が掲載されている。
防人の徴発は農民の生産活動を著しく停滞させ、一家の離散、破滅を招く場合も少なくなかった。東国からの防人が中止されてからも、兵役がなくなったわけではなく、東北地方の蝦夷(えぞ)鎮圧に当たって兵士や武器・食料の調達を阪東諸国は負わされることになった。東国がこのような特別任務を負わされた理由は、おそらく東国が大和朝廷の直接的な隷属下にあったためではないかと考えられている。