延暦十三年(七九四)都を平安京に移した桓武(かんむ)天皇は律令政治再興に努力した。すでに公地公民制は解体しつつあったが、その中で一応の成果を上げ、政治はしばらく安定した。天皇は都の造営とともに奥羽地方の経略にも力を入れ、坂上(さかのうえ)田村麻呂(まろ)などの率いる大軍を派遣している。
この時代には全国の各地で私的な土地所有が進み、残された公地公民に対する地方行政は変質し、国司は任国を単なる租税の対象と考えるようになり、国司の任免権が朝廷の貴族によって売買されるようになっていた。九世紀初めごろからは任国に留守所(るすどころ)を置いて配下の目代(もくだい)を派遣して実務をとらせ、国司は都にいて指揮をするようになった。
公地公民制を解体させたのは荘園の成立であった。奈良時代に始まる墾田などの開発によって小規模の荘園を領有する小領主や、国司以下の国衙の官人に対抗する力のない開発領主らは、中央の有力貴族や大社寺に荘園を寄進し、自身は荘官となって実質的な権益を留保したのである。こうした寄進型荘園が全国的に成立した。
荘園は、初期には大土地所有による大農経営のことであったが、農耕地の所有形態の一種といってよい。神社領を御厨(みくりや)と称するのと実質的な差はない。権門への寄進によって、租税のかからない不輸(ふゆ)と、警察権の介入を受けない不入の特権を確保したので、その結果、中央の有力者や院政政権に荘園の所有が集中した。それを基盤として藤原氏中心の摂関政治や白河上皇以後の強力な院政が実現し、高度な貴族文化が花開いたのであった。
荘園の基礎単位は、鎌倉時代に牛尾(うしのお)に存在した「権守(ごんのかみ)四郎名(みょう)」のように保有者の名でもって呼ばれる名田であり、その保有者は名主(みょうしゅ)または田堵(たと)と呼ばれた。彼らは荘園領主に対しては請作(うけさく)の関係にあり、荘園の主要構成員であった。
こうした荘園が広がると荘園同士、あるいは荘園と国衙との間で争いが起き、荘官や有力名主は武装してその防衛に当たるようになった。国衙領を支配する在庁官人や、郡司などの地方豪族も武装してこれに対抗した。このような私的な武装集団として生まれたのが武士階級である。
武士は、初めは一族郎党と隷属する農民を武装させた小集団であったが、次第に荘園の枠を越えて結合していき、各地に小武士団が群生した。その中でも源氏・平氏・藤原氏など地方に土着した中小貴族の後裔(えい)は、地方の有力豪族と婚姻を結んで勢力を広げ、その地の武士団の棟梁(とうりょう)となっていった。