平安時代の承平年中(九三一~三八)に編纂された『和名抄』(正しくは『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)』)の国郡の部には、下総国の郡として葛餝(かつしか)・千葉・印幡・匝瑳・海上・香取などの一一郡が載っており、匝瑳郡には野田・長尾・辛川(あしかわ)・千俣(ちまた)・山上・幡間(はま)・石室(いわむろ)・匝瑳・須加・大田・日部(くさかべ)・玉作・田部・珠浦(かぶら)・原・栗原・茨城(うばらぎ)・中村の一八郷が載っている。このうち当町域に属するのは次の五郷である。各郷の該当地域は村岡良弼著『日本地理志料』の推定によれば次のとおりである。当町の分は現在の大字をゴジックで示した。
玉作郷(南玉造、方田(ほうだ)、川島、東松崎、坂、山田町山倉、大角)
田部郷(本三倉(もとみくら)、谷(さく)三倉、栗源町田部、刈毛、岩部、荒北、助沢、沢、高萩、佐原市伊地山)
原郷(寺作、御所台、井戸山、多古、染井、高津原、大門(おおかど)、桧木(ひのき)、出沼(いでぬま)、次浦、西古内)
茨城郷(飯笹、間倉、井野、大原、東台、東佐野、佐野、五反田、芝山町小原子(おばらぐ))
中村郷(南中、北中、南和田、南借当(かりあて)、南並木、八日市場市本郷)
以上のうち茨城郷については、間倉の境の道付近に茨城(いばらぎ)台の地名があり、芝山町に小原子があって、これらを含む地域が比定されている。
玉作郷については、その名から勾玉(まがたま)や管王(くだたま)など玉の製作を職掌とした玉作部の住んでいた所かと推定されるが、成田市の八代玉作遺跡が『和名抄』所載の下総国埴生郡玉作郷に当たるとされるような確証が当地ではまだ発見されていない。
玉は古墳の副葬品として出土しているようにかなり古くから尊重され、普通は碧玉やめのうなどの原材料の産地に玉造部は分散居住していた。『和名抄』所載の玉造(作)郷は下総のほか陸奥・駿河・土佐などにある。
以上の諸郷で当時どのような産物があったか、延長五年(九二七)に完成した『延喜式』や『和名抄』によって下総国の産物、田畑面積などは知ることができるが、当町域のそれを特定することはできない。当時の下総の産物を貢租物に見ると、米のほか絁(あしぎぬ)(粗製の絹)、植物繊維の布、筆、牛角、麻子(あさのみ)、薬草類、牧牛・鹿などの皮、蘇(練乳)、稚海藻(わかめ)などである。
八世紀から九世紀にかけて両総方面でしばしば飢饉が起き、政府が時にそれを救済している記事が史書で目立っている。しかし一方では東北経営、蝦夷(えぞ)征討のため東国の兵士・武具・食料などが、延暦二十年(八〇一)に東国からの防人(さきもり)が完全に廃止になってからも引き続き徴されており、その負担は農民にとって過重なものになっていた。坂上田村麻呂は東征の際に東松崎の松崎神社に参詣し、鏡一面および征矢(そや)を奉献したと伝えられている。松崎神社は万寿五年(一〇二八)の平忠常の乱で焼亡し、その際、鏡と征矢は焼失したといわれている。なお、香取神宮にもすでに枯れて残っていないが、田村麻呂が参詣した際に弓を掛けたという弓掛杉があったと伝えられている。