反乱は関東各地に分散土着した高望王の子孫の間の争いから始まり、将門に殺された平国香(くにか)(高望王の長男)の子貞盛と、北関東の豪族藤原秀郷によって鎮定された。
高望王の三男良兼は上総介として上総国一帯に勢力をもっていたが、承平五年(九三五)十月、弟(また甥とも)の良正が将門に敗れて救援を求めてきたので、翌年六月、将門討伐に上総から出陣した。武射(むさ)の小道(多古町南西端の国境の道と考えられる)を通り、香取郡の神前(こうざき)(神崎)に出て、舟で常陸国信太郡えさきの津(江戸崎町と推定されている)に出て良正・貞盛勢と合流した。そして常陸・下野の国境で将門と戦ったのであるが、この時は大敗している。
境の道、千田付近
この動乱を文学的に記述した『将門記(しょうもんき)』は、この時の良兼の出陣の模様を次のように描いている。
「介(すけ)良兼兵を調(ととの)へ陣を張り、承平六年六月廿六日を以て常陸国を指し、雲の如く湧いて上下の国(上総・下総)を出づ。禁遏(きんあつ)を加ふと雖(いへど)も、因縁を問ふと称して遁(のが)れ飛ぶが如しといへり」
上総介良兼が出陣すると、道々で雲の湧くように付近に住む一族郎党がつき従ってきたという。それは多古町域を含むこの地方一帯の原野に馬を飼い、谷々に田地を開拓して私領を形成してきた開発領主たちであった。
国衙の役人が制止しても、良兼との血縁・主従関係を問題にして、そうした因縁で訪問するのだなどと称し、制止をふり切って飛ぶように駈け抜けてしまったというのである。本家・惣領を中心に、分散して開墾を進め、広大な地域に強固な血縁共同体の網を張りめぐらし、事が起これば武器を取って参集する東国武士団の団結の様子が簡潔に、力強く表現されている。
高津馬牧のように下総地方は古くから優秀な軍馬を産出したが、国牧が律令制とともに衰退すると、その牧官は付属する牧田を本拠とする武士となり、良兼のような豪族に属して、牧と田を含む私領を拡張していった。このような馬牧によってこの地方の武士団は軍事的にも経済的にも優位に立っていたのである。
一方、高望王の第五子良文は、下総国相馬郡一帯の開発領主であるが、平氏一族でありながらこの動乱には圏外にあったらしく『将門記』には登場しない(『総葉概録』では、良文は兄国香に従って将門と戦っている)。その子孫は上総・下総・武蔵など南関東各地に分布して私領を開発し、千葉・上総・三浦・畠山・川越・豊島などを名乗って繁栄している。これらの諸氏は、後の源頼朝支持勢力の中でも有力な御家人となっている。
将門の乱に続いて東国では、その約九十年後の万寿四年(一〇二七)、良文の孫忠常が、領地である下総国相馬郡を根拠地として、五年間にわたる大乱を起こしている。この乱によって房総三国は荒廃の極に達し、ほとんど亡国の状態となった。多古町の松崎神社もこの乱で焼亡したと伝えられている。
東国で乱が起きると、政府は反乱者の同族または在地の豪族にこれを討たせることが将門の乱以後の習いであった。忠常の乱に、初め追討使に任じられたのは貞盛の曽孫で北条氏の祖先でもある直方であった。なお、貞盛の子伊勢守維衡(これひら)に始まり、後に清盛が出る伊勢平氏は伝統的に阪東平氏と敵対するようになっていた。
政府のこの対策は失敗し、両平氏の年来の対立が抗争を泥沼に追いやる結果となり、直方に代わった甲斐守源頼信によって鎮圧されたのである。忠常は京都へ送られる途中で病死し、京都でさらし首にされたが、その罪は子孫には及ばなかった。その子常将・常近は後に千葉氏・上総氏の祖となり、子孫は下総・上総に繁栄し、それぞれの地の武士団の棟梁となっている。
この反乱の長びいた理由の一つには、律令国家以来の負担にあえいできた農民の支持が忠常にあったことが上げられ、それが千葉氏・上総氏のその後の繁栄にもつながったと考えられている。また、この時から阪東平氏は源氏に仕えるようになり、前九年・後三年の合戦に源頼義・義家に従って奥羽へ従軍し、やがて頼朝挙兵に協力して伊勢平氏を滅すのに大きな力となっている。
常将の子孫が千葉氏を名乗り始めたのは、常将の曽孫常重の代からであったらしい。千葉城(猪鼻(いのはな)城)を築いた常重は千葉郡・相馬郡・立花郷(現在東庄)を支配下におさめ、下総権介として国衙でも有力な地位を占めている。
多古町北中公(きみ)ガ辺田(へた)台に館(たて)を持ち、中村一帯の領主であったと伝承のある中村太郎忠将は常将の弟とされ、源頼義に滅されたといわれている。その子小太郎常方は中城に住み、頼義に従って軍功があったというが、いずれも伝承であって確実な資料を欠いている。なお『千葉大系図』には、忠常の弟に中村太郎将恒を、その弟頼尊の孫に中村太郎常宗を、その子に中村庄司宗平を載せている(地域史編北中参照)。