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千葉氏と妙見信仰

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 千葉氏はその祖、平良文以来その守護神として妙見菩薩を厚く信仰し、その一族、従臣もまたそれぞれの居住地に必ず妙見菩薩を祀っている。妙見菩薩は北辰菩薩ともいわれ、北辰すなわち北極星および北斗七星を神格化したもので、護国、災疫(えき)消滅、招福長寿に霊験があるとされるが、千葉氏が語り伝える霊験譚によれば、合戦において窮地に追い込まれた時には、必ず妙見菩薩の化(け)身が現われて危難を救ってくれることになっている。その初めは、良文が将門と戦って苦戦しているとき、上野(こうずけ)国群馬郡花園村(現、群馬町)の七星山息災寺の妙見が現われて助けられたといい、現在の千葉神社である北斗山金剛授寺妙見堂は元は七星山に鎮座していたものといわれる。
 現在、多古町には多くの妙見像・妙見社があるが、中世の城砦と関係あるものは次のとおりである。
 
 多古城 現在、居射妙光寺に祀られている妙見菩薩(千葉県指定文化財)は、元は大原内(だいばらうち)妙見と呼ばれて多古城北部にあった法福寺の妙見堂から移されたものである。多古台下西屋敷のお西妙見と、今は失われた多古古城の古城妙見とを含め多古城周辺に七妙見があったものと推定されている。
 土橋城(御所台) 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)神社(明治に改称)、旧称妙見社。
 南玉造城(南玉造字小玉) 妙見神社。
 飯土井城(南中字高田) 妙見社。
 中城(南中字中城) 高皇産霊(たかみむすび)神社(妙見社)。
 
 ただし飯土井・中城の二社は寛永十年(一六三三)勧請といわれるので、城とは関係のないものであるかもしれない。ほかに城と関係のないものとしては次の諸社があり、日蓮宗の寺院に勧請または移されたものが目立っている。
 星之宮神社(喜多字妙見前)、星宮神社(一鍬田字宮ノ後(あと))、妙剣社(大門(おおかど)字中根)、星宮社(桧木(ひのき)字竹ノサク)、妙見(星の宮)(島字中通(なかみち))、妙見宮(南中、日本寺境内)、妙見大菩薩(同、妙光寺境内)、妙見社(同、妙興寺境内)、妙見社(北中字北場)、妙見社(同字水内(みずうち))、星宮大神(川島字妙見越(ごし))。また石宮としては次浦字西の妙見社、多古字浅間(あさま)台の高根妙見その他がある。
 以上の内には勧請年度不詳のものが多く、口碑では慶長とか元和というものが二、三あるが確かではない。次浦の妙見社では古来『妙見奉社(ぶしゃ)御日記』と題する当番帳が明治終わりまで書き継がれていたが、その初めは元和十年(一六二四)である。社自体はさらに古くから祀られてきたものと思われ、その他の妙見社にも中世からのものが多いようである。それらは長くこの地を領した千葉氏一族やそれに属した人々が祀ったものと考えられよう。

次浦妙見社

 妙見信仰は千葉氏の馬牧経営と深く結び付いており、牧の経営は平良文に始まっている。良文が占拠した上野国の群馬郡一帯は帰化系の馬飼集団の羊(よう)一族が開発した所で、この一族は河内(かわち)国の天白山妙見寺の尊像を奉じてここに移住した。良文はこの集団を従属させ、騎馬軍団の養成に力を注ぐとともに、群馬郡花園村息災寺の妙見菩薩を信仰するようになった。良文の子孫は良好な牧野を求め関東各地に散ったが、それとともに妙見信仰も広がったのである。
 上野国多胡(たご)郡(現在多野郡)は、羊一族の移住によって作られた郡で、その建郡を記念した多胡碑または羊(ひつじ)太夫碑とも呼ばれる和銅四年(七一一)の古碑が残っている。後の多胡村(現在、吉井町および高崎市)には今も渡来人の子孫を称する多胡氏が多く住んでいる。当多古町と共通する地名ではあるが、当町にはそのような渡来人との関係を示唆するものはない。ただ当地に盛んな妙見信仰の源と地名が共通していることに興味深いものがある。なお「多古」の語源については、後に取り上げる。
 妙見菩薩は密教の諸宗や日蓮宗で厚く信仰されており、後に千葉氏の内に日蓮宗を深く信仰する者が多く出るのはこの面からもうなずかれる。また真言宗では妙見神などの諸神・諸菩薩を包摂しており、たとえば谷三倉の行屋(ぎょうや)に祀られている像は元は本三倉の真言宗西徳寺にあった妙見像を移したものであり、ほかにも真言宗信仰地帯で妙見が祀られている例は少なくない。