多古町域の中世は、千田親政の滅亡に始まり、戦国時代末期に、千葉氏およびその従属諸将が小田原北条氏とともに滅びた時をもって終わる。それは鎌倉幕府に始まり、室町幕府に受け継がれた武家政治の時代に当たり、前期封建社会の時代である。室町幕府は下剋上、群雄割拠の戦国時代を招いて倒れ、やがて織田信長・豊臣秀吉によって全国が統一され、江戸幕府による後期封建社会の近世に移ることになる。
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本章では、便宜上中世を三つの時期に分けて扱った。その理由は、ちょうど中世の中ごろ、南北朝期に起こった千田庄動乱を考える上に、その主役・脇役に当たる千田胤貞・千葉介貞胤および土橋東禅寺が鎌倉時代末期から登場し活躍しており、これを動乱の時期に一まとめにするのが適当と考えたためである。そこで千田庄動乱を中心に第二節を編み、前後三節に構成したのであるが、各節の内容は必ずしも時間的に明確に三つの時期に分かれていない。ことに第二節の「多古の起こりと千田庄の村郷」、第三節の「板碑に見る中世の信仰」「中世の城砦」などの項の内容は必ずしも中期・後期に限定されるものでないことを断っておきたい。
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建久三年(一一九二)征夷大将軍となった源頼朝は諸国に守護・地頭を設け、御家人(ごけにん)をそれに任じる権限を朝廷に強く要請し、義経らの追討を名目として勅許を得た。守護の権限はその国の警察権と軍事統率権に限られ、地頭は公領や荘園の警察・徴税・土地管理を権限としていた。
頼朝はそれ以前から御家人の所領の安堵(あんど)・新給を行っていたが、守護・地頭を公式に補任(ふにん)することで、将軍と御家人との関係は公的な関係となり、ここに新しい封建制度が生まれたのである。地頭の設置は初期には平家没(もつ)官領(平家の領地で没収された地)と謀反(むほん)人跡に限られていたが、承久三年(一二二一)の承久の乱後に京都方の旧領三千余カ所にも設置されてこの制度は完成した。なお「封建」という言葉は封土を分けて諸侯を建てるという意味である。
鎌倉幕府の政治的基盤は主として地方の武士階級にあった。将軍は武士らに所領の恩給を行うことによって主従関係を結び、御家人組織が成立した。主に御家人となったのは、名主(みょうしゅ)層の武士を従えた荘官の地位にある中級領主らであった。千葉氏のような東国の有力御家人はそれらの御家人層を組織した豪族的領主で、それらが鎌倉幕府を成立させた主体的勢力であった。
地頭は、初めは荘園の寄生的存在であったが、幕府権力を背景に荘園領主と対抗し、力によってその権益を侵害し、次第に支配権を確立していった。また守護も鎌倉時代の中期以後、国衙の権能をも合わせて次第に権限を強め、国内の地頭・御家人を支配するようになった。守護・地頭は南北朝の内乱を経て封建的な領主化の道をたどり、守護は室町時代にはその管国を領国化し、守護大名へと成長していった。
鎌倉時代の荘園は「某名(なにがしみょう)」と呼ぶような名田を基礎単位とし、その所有者である名主が貢納の責任を負っていた。名主は荘園領主から名主職(しき)を宛(あて)行われて名田の所有を認められ、その耕作には傍系親族や下人などを使っていたが、そのほかに他の農民に耕作させて一定の得分を収取することもあった。その場合、請作した農民には作職(さくしき)が生じた。その作職からさらに下作職が分かれることもあった。職は土地の用益権を意味するが、この場合の作職は耕作権と一定の作得を合わせ持つことになったのである。
このように荘園には本家(本所)職・領家職などのほかに地頭職・名主職・作職などが重なって、その支配系統は複雑なものになっていったが、百姓と呼ばれた荘民の中心は名主層にあった。
そうした荘民の構造も鎌倉時代中期から変わり始め、地主化して多数の名田を持つ有力な名主や、開墾や下作によって独立経営を行う者、作人に下降する者などが現われて、次第に階層分化していった。関東・東北・九州などの有力名主には数十町歩に及ぶ広い耕地を持つ者も少なくなかった。大名という言葉は、初めはこうした広大な名田を持つ名主の意味であったのが、後に大領地を持つ武士の意味になったのである。地主化した名主たちはしきりに武力を蓄え、荘園領主や荘官の支配に抵抗するようになった。
鎌倉幕府は、王朝政権の復活を目指す後醍醐(ごだいご)天皇の運動に反幕府勢力が結集して打倒されたが、天皇の新政は失敗し、武士階級の与望を担って足利尊氏の室町幕府が成立した。尊氏は新田義貞ら反対勢力を討ち破り、新たに光明天皇の北朝を立てたのである。そのため後醍醐天皇は吉野に別の朝廷を開き、以後五十余年の南北朝の対立が続いた。南朝側は各地に皇子を派遣して反幕勢力を組織し、局地的には優位に立つこともあったが、長くは続かなかった。各地の武士は自己の政治的、軍事的利害に従って両派に分かれて争ったが、情勢によって立場を変えることが少なくなかった。
室町幕府は関東管領(かんれい)(鎌倉府)を置いて関東一〇カ国を管轄させたが、鎌倉府は守護の任免権を除いては幕府の干渉をほとんど受けない強大な権限を与えられたので独立性が強まり、後にはしばしば幕府と摩擦を生じるようになった。室町幕府は内部で尊氏・直義兄弟が分裂し、時に尊氏側が南朝方と手を結ぶなどして全国に戦乱が絶えなかった。こうした動乱の間に勢力を伸ばしたのが各地の有力な守護大名であった。
守護はその管国内の武士・農民を広範に動員することができるようになり、土地の安堵・新給を行って武士らを家臣団に編成していくのであるが、さまざまの名目によって荘園に介入し、その実質上の支配権を奪い取っていった。前述のような農村構造の変化にこうした守護の圧迫も加わって、荘園領主の年貢収取率は室町時代には急速に低下し、ついには全国の荘園はほとんど有名無実なものとなったのである。
なお、南北朝期の関東地方は北朝方が優勢であったから、当時の文献や碑銘等には北朝の年号が使用されることが多い。本書では、それをそのまま記載し、特に北朝年号と断らなかったことを付記しておく。