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一、千葉氏と千田庄

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 治承四年(一一八〇)九月、千田親政が結城野で千葉成胤に敗れてからほどなく千田庄の実権は千葉氏によって握られ、おそらく常胤の弟胤幹(千田次郎)の知行地になったものと思われる。
 千田親政の軍に従った金原氏が庄司をしていた金原庄が、後に元徳三年(一三三一)の千葉胤貞譲状に「同庄(千田庄)金原郷」と書かれているように、千葉氏の勢力拡大とともに千田庄域も拡大していった。金原庄がいつ千田庄に含まれるようになったかは明らかでないが、親政敗戦後、金原氏が千葉氏の被官とさせられた時と同じ時期と見てよいのではなかろうか。
 治承四年十月、富士川で平家が敗走した後に相模の国府で行われた第一回論功行賞で、源頼朝は千葉常胤・上総広常・三浦義澄らの本領を安堵するとともに新恩を給与した。彼らの千葉介・上総介などの称号もこの時あらためて認められた。千葉介とは千葉下総介の意味で、平安時代中期以降に国守不在のことが多くなると、介は国衙で最高の地位にあった。本領安堵とは、他の侵害によって安定して確保できない所領を公式に保償することである。千田庄は千葉氏相伝の所領ではなく、武功によって新給され、この時から千葉氏の所領となったものと考えられる。
 『吾妻鏡』建久三年(一一九二)の記事によれば、常胤の執拗な所望によって頼朝の袖判(そではん)の下文(くだしぶみ)が与えられ、「相伝の所領、また軍賞によって充(あ)て給はる所々等の地頭職、政所(まんどころ)の下文を成し給はるところなり。その状に任せて、子孫に至るまで相違あるべからざるの状、件(くだん)のごとし」と保償されている。領主であるとともに地頭にも補され、子孫はそれを世襲することになったのである。
 千田庄はそれ以後、千葉氏の宗家に近い筋の者に相続されている。『千葉大系図』によれば、常胤の次弟胤幹が千田次郎を名乗っており、その子胤氏は千田次郎太郎(次郎の長男の意)を称している。また一時期、常胤の孫寛秀が粟飯原(あいばら)家に入って生まれた常行に千田庄が増賜されたこともあるが、それも宗家筋といってよい。次に第七代成胤の次男、千葉次郎泰胤が千田庄に居領しており、さらに第十代頼胤の子宗胤(大隅守)が千田太郎となって、その子胤貞に受け継がれている。

千葉氏系図(初期の嫡統と千田庄関係者)

 この胤貞の代に鎌倉幕府が滅び、胤貞のあとは何代かその子孫が継承しているようであるが、『下総国旧(く)事考』は「一族大隅守これを領し、大隅守西国の領地へ移りし跡欠所となり、宗家にて進退せしものと見ゆ」としている。
 このように千田庄は千葉氏の宗家筋に受け継がれており、特定の一族に分与されなかったのは、千田庄が千葉氏にとって重要な拠点であったためではなかったかと想像される。
 以上にあげた千田庄領主らの内、胤貞以前の人物について知りうる文献はきわめて乏しい。『千葉大系図』によれば、泰胤については「千葉次郎。仕将軍頼嗣卿・宗尊親王忠勤。泰胤居-領下総国千田庄」と注記されている。鎌倉第五代将軍藤原頼嗣と第六代宗尊親王の在職時期は寛元二~建長四(一二四四~五二)、建長四~文永二(一二五二~六五)である。宗尊親王は就任の時、松崎神社に五〇貫文を寄進している。これは建久三年(一一九二)に頼朝が白銀一〇枚を寄進、建仁三年(一二〇三)に第三代将軍実朝が同一〇枚を寄進した前例にならったものであろう(地域史編東松崎参照)。
 泰胤の兄胤綱は二十歳で夭折し、第九代は二人の弟時胤が十一歳で嗣いだが二十四歳で没し、第十代頼胤は三歳で相続しているので、泰胤はそれらを補佐して一族を統率する任に当たったのであろう。彼が千田庄に居領しながら特に千葉次郎を名乗っていたのはそのためであろうか。
 泰胤の妹は、最明寺入道(執権北条時頼の法名、一二二七~六三)の後室となり、千田尼と呼ばれているので、出家の後は千田庄に住んでいたものと思われる。下総国臼井荘神保郷(印旛郡)の地頭であったらしく、香取神宮の記録によれば、文永(一二六四~七五)のころの造宮記録に「勢至殿一宇 一間 葦葺 在金物 作䉼(料)官米三十石 神保郷本役也 仍地頭千田尼造進 (之カ)」とある。女性も地頭になれた時代で、夫から妻へ所領が譲られることも鎌倉時代初期には一般的なことであった。

千葉氏・北条氏姻戚系図

 ただし同神宮記録によれば、神保郷の地頭は十三世紀半ばごろには千葉介となっており、十四世紀半ばごろには「千葉大隅守跡」になっていて、千田尼の後には宗胤―胤貞流千葉(千田)氏が継いでいるのが注目される。
 小笠原長和氏の研究によれば、泰胤の娘は北条実時(二代義時から分かれた実泰の子、金沢氏の祖)の子、金沢顕時の妻となり、十五代執権金沢貞顕を産んでいる。一方、貞顕の姉は第十一代千葉介胤宗の妻となり、第十二代の貞胤を産んでいる。
 ところが貞顕の弟顕実の子が鎌倉東勝寺の長老となっていて、千田庄の次浦修理助(しゅりのすけ)入道(五郎左衛門)の娘の比丘尼(びくに)に衣鉢(えはつ)を授けている事実が、横浜市の金沢文庫古文書によって知られる。
 衣鉢とは、禅宗で法統を継ぐ者がそのしるしとして師から授けられる袈裟(けさ)と鉄鉢であるが、東勝寺は北条義時が建てた禅寺で、北条氏の菩提寺であり、後に高時ら一門が自殺して滅亡した所である。
 次浦修理助入道については明らかでないが『神代(かじろ)本千葉系図』には第二代千葉常長の子として次浦八郎常盛の名が見え、その子に右馬允(うまのじょう)がある(七六ページ「千田庄諸氏の系譜」参照)。右馬允の子常家からは千田氏を称しており、千田庄では有力な武士であったと思われる。そのあたりを『千葉大系図』では採っていないが、世代としては常家は常胤の同世代になるはずである。したがって修理助入道は仮にそれの同系であったとしても何代か後の子孫ということになる。
 この文書は金沢称名寺の円秀という僧が、千田庄の土橋東禅寺に来て講座を開いていた本如(にょ)房湛睿(たんえ)に宛てた書状で、かの比丘尼の紹介で一人の女性が、同じ老師から授戒してもらいに千田庄の田舎から上ってきたので案内してやったことを記し「可東国之宿願不浅候、此事大切候之間……」といって湛睿の合力を求めている。称名寺の僧が下総など東国の地方に法を弘めようとしていた熱意がうかがわれるが、不案内な鎌倉まで受戒に上っていく女性もいたことから、たぶん武士階級の女性と思われるが、当地方の信仰の一端をうかがうことができよう。