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一、千田胤貞と千葉介貞胤

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 千田庄は平安時代末期に千田親政が千葉成胤に敗れて以後、千葉氏一族の間で継承されてきたが、鎌倉時代末期には千葉胤貞の所領となっていた。
 胤貞(一二八七~一三三六)は第十代千葉介頼胤の嫡子大隅守宗胤の長子であるから、本来は千葉氏の嫡流であり、当然千葉氏の家督を継ぐ立場にあった。しかし肥前国小城(おぎ)郡に所領を持っていた祖父頼胤が文永十一年(一二七四)の蒙古襲来の役に九州に出陣して負傷し小城で死んだので、その跡を父宗胤が嗣ぎ九州防衛に当たっていた。その宗胤も若くして亡くなったため、幼くして胤貞が九州で大隅守を嗣ぐことになった。弘安の役(一二八一)後、鎮西御家人は所用ありといえども鎌倉に参向すべからずという将軍の教書が出ていたためである。一方、本国千葉では、宗胤が後事を託した弟の胤宗が代わって千葉城にいて第十一代千葉介を継ぐことになり、さらに嫡子貞胤が第十二代を継承したのであった。
 こうして胤貞は、九州千葉氏の祖となったが、鎌倉時代末期から南北朝期にかけての動乱の中を各地に転戦して活躍する間にも、下総へ帰ることが少なくなかったようである。胤貞の下総の領地は千田庄のほか臼井庄・八幡庄の内にあったが、父宗胤と同じく千田太郎を称し、千田殿と呼ばれていたのは、千田庄を領地の内で最も重要視し、この地を本拠にしていたためと思われる。(以下本書では胤貞流千葉氏を宗家の千葉氏と区別する便宜上、千田氏と呼ぶことにする。)千田庄における胤貞の居館は窪(多古町北中字久保)にあったと日本寺の古記は伝えている。
 胤貞は八幡庄の中山法華経寺の檀越(だんおつ)として同寺の基礎固めに貢献したが、彼が日蓮宗に帰依したのは同寺二世貫首日高の時であった。正和三年(一三一四)に没した日高の譲状や置文(遺書)に同寺の俗別当として署名しており、すでにこの時点で同寺の運営についての実権を握っていたと見られる。日高が亡くなると、胤貞の猶子日祐が若冠十七歳で第三世貫首となっている。胤貞の力によるものと見てよいであろう。これによって中山法華経寺は名実ともに千田氏の氏寺となったのであった。
 この正和三年四月二十一日付の日高・胤貞連署の譲状には次の文字が見える。
 
    所々堂宮、並(ならびに)田地等事
  若宮戸御堂 中山坊、若宮別当職並彼岸田、谷中郷内紀平三(ざ)名、牛尾郷内権守(ごんのかみ)四郎名
  右所々者(は)、以大輔房日祐譲与之畢(おわんぬ)。於御祈禱者、任先例、可勤行者也。仍(よつて)譲状如件(くだんの)。
(中山法華経寺文書)

 牛尾権守の名は地域史編牛尾の章に掲載する牛尾の系図には載っていないが、地域史編林の章掲載の『古来より林村之御領主』(『林村検地水帳』末尾記載)に室町時代後期の領主として牛尾権頭の名が記されている。鎌倉時代の村落においては権守は名主層の名であったらしいが、牛尾郷に当時あった権守四郎を名主とする名田が日祐に譲られているのである。これらの土地は、それより先に胤貞から日高へ譲渡されたものであったと考えられる。なお同じ正和三年の四月二十六日付日高譲状では「牛尾村内権守四郎太郎名」となっている。すでに四郎の長男太郎が相続していたものであろう。
 胤貞は法華経寺の伽藍建設を進める日祐を積極的に援助し、広大な寺領を寄進するとともに、下総国内および肥前国の自領内での同寺の布教活動にも大きな力となっている。
 『正東山日本講寺歴代譜』によれば、胤貞は日祐に帰依して、「氏寺飯出(ママ)井真言寺を法華精舎と改む。今の芝徳成寺是なり。且つ二子を投じて薙(てい)染せしむ。師号するに胤貞の二字を以て、其先を日胤と曰ひ、後を日貞と曰ふ。千葉氏小寺を西谷(にしさく)に構へ師を此(これ)に請(しょう)ず。今柳下助兵衛ある其地なり。日胤これを開いて寺となす。師祐上(日祐上人)常に高師(日高)へ篤孝なるを以て此山を高祐山東福寺と称し、此地に祠を建てて妙見大士を勧請す」とある。
 日胤・日貞の兄弟については後に「動乱後の千田庄」の項で取り上げるが、上の系図の千法師・乙法師がそれに当たると思われる。

 

 日祐を胤貞の猶子とした消息については、元応二年(一三二〇)の譲状で胤貞は、八幡庄谷中郷の中山堂地・田地等について「右等者、為現世後生大輔公日祐自幼少養子としてゆづり与所也」といっている。
 元応元年(一三一九)日祐は東福寺を日本寺と改め自ら開基となった。中山法華経寺が正中山と号するのに対して正東山を号とした。ここでも胤貞は同じように多大な寄進をして援助している。
 元徳三年(一三三一)に胤貞が日祐に寄進した田畠の譲状を見ると、千田庄の田地および在家(ざいけ)として、
 
 下総国千田庄原(はら)郷阿弥陀堂職(しき)田地七段、在家壱宇。同庄中村郷三谷(みや)堂職田地弐町五段、在家壱宇。同郷辻堂職田地五段、在家壱宇。同郷田地五段、在家壱宇。同庄金原郷内田地五段、在家壱宇。
 
などが含まれており、
 
 右所々田畠等者、胤貞相伝私領也。然(しかるを)彼(かの)所々堂職等お為中山堂免、師匠大輔阿闍梨(あじゃり)日祐仁(に)、永代奉譲処実也。天長地久御祈禱お能々(よくよく)可御心、代々殊者胤貞後生菩提お可御訪(弔)者也。若(もし)子々孫々中致違乱競望、退-転法花(華)経信心、違-背中山者、為不孝仁、胤貞跡お壱分不知行。為後日譲状如件。
元徳三年九月四日                               平 胤貞(花押)

とあって胤貞の信仰の内実を見ることができる。原郷阿弥陀堂については本節第五項「多古妙光寺の成立」で取り上げるが、多古町染井字原にあった村堂である。中村郷三谷(みや)堂の所在地は、後に応永四年(一三九七)の鎌倉公方(くぼう)足利氏満の中山法華経寺への寺領安堵状に「中村郷三谷村内田畠在家」と記されている三谷村(多古町北中字宮)にあった村堂であろう。村岡良弼は、三谷堂は後の妙福坊、辻堂は浄楽坊であり、両坊は浄妙寺の属坊であったと推定している。また、初めに触れた日祐への日高譲状と同じ日付の、たぶん追加と思われる日高譲状には、「譲渡、三谷堂免壱町事[図書三郎私寄進之]」とあって、この地の名主と見られる図書三郎なる人物が日高に堂免一町歩を寄進したものを日祐に譲渡している。
 ここでいう職は土地の用益権の意であり、村民の信仰の中心である村堂を維持するために胤貞は田地の用益権を在家ともども寄進したもので、土地の領有権は依然保有していたのであろう。これに対して図書三郎が寄進した堂免は堂のために領主に対する年貢・課役を免除された分と思われる。このように千葉氏やその領内の武士の援助を受けた中山法華経寺によって、村堂は阿弥陀堂からやがて法華堂へ改められ、日蓮宗布教の拠点となっていったのである。なお在家一宇は荘園に隷属する農家一軒の意で、これについては後述する。
 このほかにも胤貞は元徳三年(一三三一)九月四日の別の譲状で、下総国千田庄原・中村・金原参カ郷田在家、その他を日祐に寄進している(中山法華経寺文書)。このように、胤貞およびその一族が法華経寺に寄進した田畠は、総計すると実に四五町歩にも上るといわれている。胤貞の生きた十四世紀初頭の社会は、鎌倉時代末期から南北朝時代の乱世であった。その戦乱争闘の中を信仰によって生き抜くために、胤貞は日祐を導師として一族の繁栄、現当二世の安穏を祈って寄進もし、また師の布教にも貢献したのであった。
 しかし胤貞の晩年は志に反して安穏ではなかった。南北朝の対立に重ね合わせて、千葉氏も二派に分裂して戦うことになったのであるが、その戦端は胤貞自身の千葉城攻めによって開かれている。それに先立つ建武元年(一三三四)の十月、建武新政に暗影のさし始めたころ、胤貞はその惣領職を嫡子胤平に譲っている。この時、胤貞は四十七歳であった。「両庄内知行分」といっているように、胤貞の所領は千田庄全域ではなく、前出の譲状から考えると、原・中村・金原の三カ郷と牛尾郷あたりに限られているように思われる。
 
   ゆづりわたす所りゃう(領)の事
 右、ひぜん(肥前)の国小城郡、下総国千田・八幡両庄内知行分のそうりゃう(惣領)職、嫡子たるによって孫太郎胤平に限永代譲渡也。庶子に分譲分は、かの状にまかせて、いらん(違乱)あるべからず。仍(よって)譲状如件。
建武元年十月朔日(ついたち)                                     胤貞(判)

 孫太郎胤平という人物は『神代本千葉系図』には胤貞の四男の位置に載っている。三男までは庶子であったらしい。(胤平については後述する)
 前述のように胤貞の居館は中村の窪にあったらしいが、防衛拠点として飯土井城と大嶋城を胤貞は築いたと伝えられている。飯土井城は分(わけ)城ともいう。本城に対する分城であるかどうかは不明である。多古町南中字高田の妙見神社がその城跡で、この妙見菩薩は胤貞が守護神として勧請したものと伝わっている。大嶋城は多古町島の塙(はなわ)台か、または船越の丸山のいずれか説が定まっていない。
 胤貞は惣領職を譲った二年後に三河で没するが、そこに至る経緯は次項に譲る。多古町南中の東福寺の境内には、「平胤貞已(い)来御先祖等敬白」の銘のある嘉吉二年(一四四二)の板碑(いたび)があり、唐竹(とうちく)妙光寺境内には胤貞以下一族の名を刻んだ応永三十三年(一四二六)の板碑が立っている。南中には胤貞に関する伝承も少なくない(地域史編南中参照)。

東福寺境内の嘉吉2年板碑

 胤貞の夫人は、胤貞が地頭であった下総国八幡庄曽谷郷(蘇谷とも書く)の領主曽谷教信の娘である。父教信は深く日蓮に帰依し、出家して曽谷山安国寺などを建立しているが、夫人は胤貞没後、八幡庄大野郷にあった住居を寺として礼林寺と称し、出家して妙林日貞を名乗って仏事に励み、胤貞没後四二年目の永和四年(一三七八)に死去したという(『大野礼林寺記』)。
 一方、千葉介を継いだ貞胤(一二九一~一三五一)は、胤貞より四歳年下の従弟で、鎌倉幕府を倒す戦では同志の間であった。しかし関東にいた貞胤は新田義貞に従い、西国にいた胤貞は足利尊氏に従っていた。そして次の南北朝の動乱においてもこの関係は引き継がれたので、両者はそれぞれ南朝方と北朝方に分かれ、時には同じ戦場で相対することも起こった。ただし、この間の両者の動きはもっと複雑で、諸説もあり不明確な部分が多い。
 このような対立関係が背景となって、両者の惣領職をめぐる反目は武力による衝突となり、ひいては千田庄に戦乱を巻き起こすことになったのである。南北朝の争乱期には足利氏の内紛を始め、こうした同族の争いが各地で見られ、東国では相馬・結城・宇都宮・三浦の諸氏の分裂抗争が起きている。
 千田庄動乱については別項で述べるが、合戦としては土橋城の攻防と千葉・大嶋の合戦とがあり、土橋城合戦の後、この同族争いは、貞胤が心ならずも足利方に投降したためにいったん収束された。その直後に胤貞が死に、以後貞胤は一五年間を下総守護として在任し、その子氏胤、孫満胤がその職を継いでいる。
 『妙見実録千集記』は「この貞胤の一代は領内平穏、一門繁昌して、千葉家の最隆盛を極めし時なり」と称讃している。しかし、貞胤は、千葉家が代々真言宗を信仰してきたのを、故あって時宗に改めたため、『千葉実録』は「此の人の代迄は、妙見尊様々霊験ましまして守り給ふこと限りなく、御一門も武運繁昌有り。然るに宗門の法阿弥陀仏の法意を以て神前に行ふこと、神慮に背く故にや、此の人の代より感応も薄く、自ら武運も衰へ、軍事も勝利少しとなり」として、貞胤の仏法のみを尊敬し、神を疎略にする態度を非難しており、評価が分かれている。