はるかに申入す(ママ)候。おそれおぼえさせおはしまし候。さてはつちはし(土橋)の御寺そう(僧)たちせう/\(少々)みくら(三倉)へ御出候などきこゑ候。まめやかに御心もとなくおぼえさせをはしまして候。さりながら御寺さまのらうぜき(狼藉)候はぬよし、うけ給はり候。めでたく悦覚させ(後欠)
(氏名未詳書状、四二三九)
金沢文庫古文書に八通の書状を残す等空という僧が、この三倉寺の住僧であろうという推定を荻野三七彦博士はされている(『早稲田大学文学研究科紀要四』所載『鎌倉時代に於ける文化の地方伝播』)。ただし博士は必ずしもそれを考証されているわけではない。
三倉という名前から現在の本三倉の西徳寺が三倉寺に比定されているのであるが、同寺は明治時代に焼失したため、現在そのことを証明する史料はそこには存在しない。しかし、ほかに該当する寺も見当たらないので西徳寺に当てるのは不当ではない。
等空の書状はすべて湛睿の稿本などの紙背に使われていたもので、湛睿宛てに出されたものと考えられるが、宛先は「東禅寺御侍者」が三通、金沢称名寺一通、泉州久米多寺一通で、一通は本如坊(湛睿)宛て、二通が宛先を欠いている。久米多寺も湛睿が数年いた所で、これで見ると湛睿とは相当長い期間師弟として交渉のあった人物のようである。
なお、西徳寺には後に等持法印(一七一五~九一)という住職がおり、現在の山門のある切通しを開いて入口を付け替え、明治に焼失した本堂を建てた人物と伝えられている。「等」の字に何らかのつながりがあるかどうかは不明である。
さてその書状の東禅寺宛ての一通には、「今度動乱已(い)後寺中無二別子細一候。但三倉寺領事少難儀候」とあって、等空が三倉寺の領事(差配)をしていたようであるが、文言からは発信地は三倉寺とは別の寺のようであり、寺中という表現からはかなりの大寺であったことがうかがわれる(等空書状、一九九九)。三倉寺に対してそのような近い位置にある大寺としては東禅寺以外にはないのであるが、宛先が東禅寺であるところから、三倉寺がはたして本三倉にあったのかどうか疑われるのである。
また「今度動乱已後……」という内容は次項の合戦をさすものと思われるが、直線距離で四・五キロメートルほどにすぎぬ東禅寺と本三倉との間の書状とは考えにくいのである。
以上の点は次項の千田庄動乱を考える上できわめて重要な意味を持つので、動乱について述べる前に特に取り上げた次第である。