此間無二便宜一、不レ令二申入一候之条、恐入候。抑(そもそも)、千田孫太郎殿、子息滝楠(りょうなんカ)殿、千葉介殿と一味同心、可レ落二大嶋一之由、依下被二申下一候上、竹元と岩部中務 定合力仕候。竹元も去月廿一日大原へ付(着)候て、国中軍勢を集候。雖二然(しか)候一、けはしき合戦は未レ遂候。(後欠)
(氏名未詳書状、四七二九)
次の書状はそれに続く時期のものと思われる。
畏令レ啓二案内一候。抑、千葉・大嶋合戦以 (外カ)候。雖二然候一、於レ寺者、無レ別 (候カ)間、無二申限一目出度悦 (候カ)。合戦之間事、定余之 (方カ)より被二申入一候はんと存 (候カ)。委細不二申入一候、恐存候。(中略)
井土(戸)山事をもちて雖下可二申入一候上、物忩(騒)候間、不二申入一候条、恐存候。今度も合戦御寺無レ別御事候御事、無二申計一悦入候旨、よく/\申べきよしを申入候。いかさまにも御寺びんぎ(便宜)に、重可二申入一候。重恐惶敬白。
(氏名未詳書状、四七一六)
「千葉・大嶋合戦以 候」とはどういう意味であろうか。まず千葉・大嶋合戦を千葉介方対大嶋城との合戦と見るか、それとも千葉庄の合戦と大嶋城の合戦と見るかに説は分かれているが、後の説の場合、土橋城の合戦は単に千葉庄の合戦の延長と見ることになり、東禅寺から出した手紙としてはそぐわないように思える。
ここは千葉介対大嶋城の合戦ととって、国中を動員したのに黒白を決める戦ができなかった千葉介の権威の低下が「もっての外」あるいは意外であったと考えることができる。
合戦に参加した岩部中務は『栗源町史』によれば、千田胤貞とともに足利尊氏軍に参加して南朝方と戦ったと推定され、さらに建武三年千田庄の内乱にまき込まれ、九月九日重陽の節句に落城し滅亡したと伝えられている。それに従えば、戦は岩部にも及んだことになる。「岩部中務 定合力」の欠字に敬語である「卿」を当てる向きもあるが、疑問である。
岩部氏は先の土橋の合戦に大嶋とともになぜか援軍に行かなかったとして大嶋とともに去就を疑われている。今度は大嶋を討つ千葉介方に合力したのに、戦況は優勢と思われた千葉介方に不利に展開して、あえなく滅びてしまったらしい。竹元は不明であるが、貞胤の代官に竹元五郎左衛門尉がいる。竹元が着陣した大原は、多古町の飯笹・間倉・井野・大原・喜多・五反田および芝山町の小原子を含む大原郷一帯と考えてよいだろう。(岩部氏については七六ページ系図参照)
しかし千葉介が国中の軍勢を集めながら決戦をしかけられなかったのはなぜだったのか、また合戦の原因は何であったのだろうか。