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四、動乱後の千田庄と千田氏の系譜

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 千田胤継の大嶋城をめぐる千田庄の動乱も、どうやら胤継に有利に展開して平和がよみがえったのであろう。金沢称名寺に帰った湛睿は、たぶん東禅寺に宛てたと思われる手紙に次のように書いている。
 
 此間動乱、面々御大事、乍恐奉察候。雖然於今者、多分属静謐候。返々悦入候。就中土橋城御警固之由承候。寺家事定被御意候。殊以恐悦無極候。毎事期後信候。
(湛睿書状、一八六八)

 その喜びの様子が想像される。特に土橋城を警固しているから東禅寺のことも心配してくれていることと喜び感謝している。また湛睿の消息には、金沢氏滅亡以後の東禅寺の維持のために、諸方に後援を依頼していることが記されている。
 
 又付土橋寺事、千葉介、図(ず)書左衛門、御寺方へも遣状候。いづれも/\内々御披覧候て、得其意、加御詞伝仰候。
(湛睿書状、一八八二)

 この書状に見える図書左衛門は貞胤の家老で、建武期に香取の代官であった円城寺図書右衛門(図書允貞政)と同一人物かもしれない。また次項に述べる円城寺図書左衛門尉胤朝は千田義胤の被官であり、時期はずれるが多古村一帯の支配者であったらしいので、湛睿が後援を頼むところを見ると、この図書左衛門も千田庄に何らかの関係があったのであろう。とにかく下総守護である千葉介とその有力な被官である図書左衛門に後援を頼んで内意を得、その詞書も貰うことができたのであろう。「御寺方」とは千葉氏につながる寺々であろうか。称名寺系の僧が千葉庄の堀内光明院や大日堂にいて活動していたことが知られている。
 湛睿はさらに、檀越の原四郎を通じて千葉氏のために祈祷の精誠と忠節を尽くす誓状を出している(湛睿書状、一八三二)。このような態度は金沢氏健在の間の湛睿には考えられないことであった。次節の「板碑に見る中世の信仰」が示すように当時の武士たちは現当二世の安穏の祈願を要求し、湛睿の学問や授戒を必要としたのではなかったのであった。
 そうした湛睿の努力や支配者との妥協もむなしく、彼の後継者の時期になると、寺領はなくなり、寺僧も生活が不可能になって四散してしまい、恒例であった仏事も講義も行われなくなっていた。堂宇は破損しても修理もできなくなり、金沢との交通もとだえてしまったのであった。
 こうした東禅寺の没落の時期に平行して興隆しつつあったのが、日祐による中山法華経寺の教線であった。
 旧仏教の東禅寺に対して、新仏教である日蓮宗は動乱下の武士や一般庶民の支持を広く獲得しつつあった。真言宗寺院の日蓮宗への改宗や、千田胤貞の日祐への積極的な援助はすでに見たとおりで、そこには大きな時代の流れがあった。
 ちなみに湛睿と日祐の生没年代を上げれば、前者は一二七一―一三四六年、後者は一二九八―一三七四年で、ともに七十六、七歳で入寂しているが、この世代の差が新旧仏教の盛衰にも重なったのであった。
 さて千田氏を継いだ胤継の地位が動乱によってゆるがなかったことは、次に掲げる観応元年(一三五〇)の真間弘法寺への寄進状によって理解されよう。
 
   奉寄進下総国千田庄倉持堂免事
 右以倉持阿弥陀堂々免、為胤継現当二世、所-進御影御宝前也。将(はた)又、於此所者、至子々孫々違乱妨候。仍為後日寄進之状如件。
   観応元年七月十一日                                     平 胤継(花押)
  真間御坊
 
 倉持阿弥陀堂については明らかでないが、多古町水戸に倉持および倉持台の小字があり、同じく林には蔵持の小字がある。「現当二世」は現世と当来の世、つまり来世の意で、「御宝前」は神仏前の敬称である。
 同じ日、胤継はまた同趣旨の千田庄中峰虚空蔵堂免の寄進状を中山法華経寺に出している。
 中峰の地は多古町喜多大原にもあるが、村岡良弼著『日本地理志料』は中村の妙興寺の項でこの寄進状に触れて、「妙興寺は正峰山と号す。中山寺観応元年の文書に千田の荘中峰堂に作れり」といい、妙興寺に結び付けている。峰妙興寺が初め中峰堂と号したという文献は他に見当たらないが、中村の峰の堂を約して中峰堂と称したのであろうか。妙興寺は前節の「日蓮宗初期の寺々」の項で述べたように、正安二年(一三〇〇)日弁が大嶋城に一宇を創建したのを弟子の日忍が現在の地に移し、山号を正峰山と改めたとされている。中峰堂を寺に改めたのであろうか。
 胤継は、これらの所領寄進に見られるように信仰心が厚く、義兄の日祐に従い一族の者を引き連れて身延山に登り日蓮の墓に参詣したことも度々あったといわれる。
 胤継はまた、観応三年に八幡庄谷中郷(市川市)の田地を中山本妙寺に寄進している(中山法華経寺文書)。その土地については、後に義胤が、これは亡父胤氏から譲られた所領の内にあり公方の安堵も受けてはいるけれども、祖父胤継の寄進状どおり間違いなく子孫にも守らせるであろうと指示した安堵状が法華経寺文書にある。署名は応安五年(一三七二)二月、義胤の被官円城寺胤朝になっている。この人物については追って「多古妙光寺の成立と一円法華」の項で取り上げることにする。
 胤貞流で千田氏を名乗る者を『千葉大系図』に探ると右の系図のようになる。この系譜の内で、胤貞を継いだ胤泰が、「実は胤貞の弟」とあるように、また『松蘿館本千葉系図』と照合して推定すると、胤泰・胤基・胤鎮に並ぶ三世代はすべて胤貞の子ないし猶子ではないかと思われる。

『千葉大系図』に見る千田氏(胤貞流)

 また胤鎮の子胤朝(前掲の円城寺胤朝とは系譜からいって別人と考えられる)は『千葉大系図』の脚注によれば肥前守とあり、その子孫は五代目から千田を称しているが、三代目の胤頼は肥前で討死しており、代々九州にいたように思われる。それに対して胤氏の子孫の千田氏が千田庄にいたように考えられる。
 この系図では、千葉・大嶋合戦の当事者である滝楠もその父胤平も出てこない。敗戦の結果、排斥されたと見るべきであろうか。
 また胤鎮の第三子胤氏は多古氏を名乗っているが、多古を苗字とする者は千葉氏の諸系図でもこの胤氏に限られている。胤氏の子義胤は多古氏を継いだかもしれないが不明である。胤氏のころ多古周辺の開発が大いに進み、人家も増えてきたのではないかと推測される。多古古城の館もあるいはこの胤氏のころに築かれたものではないだろうか。
 胤貞以後の千田氏の系譜を考える上で参考になる板碑が、多古町南中の唐竹妙光寺に立っている。応永三十三年(一四二六)九月十七日の紀年銘があり、胤貞・胤継・胤氏・義胤・胤清・胤満の名を連ねて供養している。これらが胤貞以後の惣領職であるかどうか断定はできないが、その可能性は十分あると見てよい。その系統は次に示す『松蘿館本千葉系図』の方に単純に表わされている。
 『松蘿館本系図』ではここに掲出した部分の他には千田を称する者はいない。胤氏系の千田氏は『大系図』でも胤嗣をもって絶えている。なお胤幸以後は両系図とも共通である。前記の板碑は胤満の子胤春あるいは胤安によって建てられたものと思われる。そして、胤清は千葉を名乗って九州に移っている。

『松蘿館本千葉系図』に見る千田氏(胤貞流)

 唐竹妙光寺の板碑より七年前の応永二十六年(一四一九)二月に胤満・胤泰(胤安)によって建てられた宗胤以下の先祖供養の板碑が安久山円静寺(八日市場市)にあり、この七年の間に胤満が亡くなっていることが、七年後の方の碑で尊霊となっていることによってわかる。
 以上の千田氏は第十一代千葉介胤宗の兄宗胤(千田太郎・大隅守)その子胤貞の系譜であるが、上図のように第十二代千葉介貞胤の系譜にも千田氏が見える。以下の系図はすべて『千葉大系図』によっている。

 

 千田右京大夫・刑部大輔は肥前の領地におり、南北朝動乱に活躍している。また第十四代千葉介満胤から出た千田氏も見える。

 

 賢胤の注には「下総国葛西郡、武蔵国豊島郡、上州、野州を領し、石浜・赤塚(武蔵国)に居る。宝徳三年(一四五一)、千葉介胤直(第十六代)急難の時、一所に討死す」とある。胤直が志摩城落城後、土橋東禅寺の阿弥陀堂で自害したのは宝徳三年とあるが、正しくは康正元年(一四五五)であろう。胤直については次節第一項で述べるが、賢胤は胤直の弟ともいわれている。その後、一族が千田氏を称しているのはなぜであろうか。自胤と実胤は上杉氏の援助で市川城にいたが、足利成氏に追われて石浜・赤塚城に移り、ここで武蔵千葉介を称して、胤直を滅ぼした馬加康胤系の下総千葉介と対立している。したがって千田庄にいたことは考えられないのである。あるいは賢胤は千田庄に領地を持っていたのであろうか。
 千田七郎自胤の注には「世を遁れ、美濃国に於いて死す」とあり、弟実胤が家督を継ぎ、武州石浜・赤塚にいたとある。実胤の妻で盛胤の母は上杉弾正女とある。また自秀が千田七郎二郎を名乗るのは遁世した七郎自胤の跡を継いだのであろうか。
 最後に、第二十四代千葉介親胤の弟胤羽が千田右京進を名乗っている。注記には「親胤生害(自殺)以後、京都に出走す。後胤富(二十五代)及び氏族家臣ら、その帰るを乞う故、佐倉に帰住し、遂に病死す。子無し」とある。千田庄との関係は不明である。
 以上が千葉氏系図上に見る千田氏であるが、これを整理すれば、
 ①宗胤―胤貞流千田氏 a胤満流。b胤朝―勝利流。②貞胤流千田氏。③満胤―賢胤流千田氏。
の四流となる。千田庄の領主はこうして時代の動きに従って交替してきたのであるが、その時々に千葉氏の主流に近い一族にもどっているのは、先にも述べたように、千葉氏にあって千田庄が重要な拠点であったことを物語っているように思われる。
 千田氏に関しては第一節の「千葉氏と千田庄」の項でその先行期を扱ったので、以上の後期千田氏の系譜と結び合わせて考察していただきたい。ただ、以上の千田氏四流が千田庄を一円支配したとは限らず、胤貞流の支配が東部・南部に限られていたように、各流が支配地を異にしていたことも考えられ、千葉介の支配地があったことも考えられる。
 なお千田庄の村郷を苗字とする諸氏について伝える系図としては『神代本千葉系図』があり、当該部分を抽出して七六ページに掲載してあるので参照されたい。安久山・岩部・牛尾・大原・飯竹(飯笹か)・佐野の諸氏が原・金原・粟飯原氏の分流として出ている。牛尾氏は後の牛尾胤仲の祖として、飯笹氏は後の飯笹長威斎の祖として考えられる。大原・佐野を称する者は『総州山室譜伝記』に大原和泉守の名が見えるほかは伝承もないが、『神代本系図』の当該箇所は千田庄関係と目されるので、かつてこれらの諸氏がそれぞれの地にいたものと思われる。