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日貞の置文

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 千田胤貞には、日祐のほか日胤・日貞と自らの諱の字を分け与えた僧籍の猶子があった。前掲の『松蘿館本千葉系図』で見る千法師・乙法師が両者の幼名ではないかと思われる。二人は中山法華経寺の塔頭(たっちゅう)四院家の一つ法宣院主を継ぎ、それを日貞の弟子の埴谷の日英に伝えている。二人はまた胤貞の創建した多古町南中字西谷(にっさく)の東福寺の二代三代の住持でもあった。東福寺は瑞光寺と名を改め、後に日本寺となるのであるが、その初代は二人にとって兄でありまた師でもある日祐であった。
 延文六年(一三六一)の日胤譲状(市川市中山浄光院文書)には、日祐に譲る所々堂免の内に「一中村郷内南坊敷地免田一町二段。一原郷内谷内(やのうち)堂免田地壱町、在家一宇、畠一段。一原郷内多古村和泉公堂免田五反、畠一反、在家一宇」がある。これらの堂免を受け継いだ日貞の書き残した置文(おきぶみ)が日本寺に伝わっている。
 
 さだめなきよ(世)にて候ほどに、かやうにかきおきて候。日胤の御あとをば、みな童子僧正(ママ)にゆづりあるべく候。たゞしたこの和泉の公のあとをば、薬樹若僧にまい(参)らせたく候。僧正がせいじん(成人)まで御め(目)かけさせ給候べく候。やのうちをば、はんや(埴谷)の小ざう(小僧)にと(取)らせたく候。中村南坊の一丁二反のうち四反は真間(弘法寺)のおかた(御方)も(持)たれて候。八反は身のにて候を、二反をば比丘尼にまいらせ候よし申て候。いま六反あるべく候。御ねん(念)おほせつけ候て、僧正を御ふち(扶持)候はば、畏入候。御自筆の御ほんぞん幼少の物にて候へども、僧正に給候べく候。世間の具足はくり(庫裡)、ちゃうす(茶臼)くゎんす(鑵子=茶釜)、ふぜいの物ども、さしたる事は候はねども、また(全)しくして僧正にみな/\給候はゞ喜入候/\。仍為後日件。
応安元年(一三六八)戊申十二月八日                               日貞(花押)

 これは胤貞没後三二年目の文書である。「さだめなきよにて候ほどに」という文頭には、中世の無常感が出家の身であればなおさら強く感じられたのであろう、常套句かもしれないが真実感がこもっている。
 仏事のほかは茶を嗜んでいたものと思われ、世間の具足(暮らしの道具)、風情(風流)の物など大したものはないが一応そろっているのでと、茶道具にはいささか愛着の情を示しているところ、当時の僧の心がしのばれる。庫裡にはそこに蔵する財宝・器物の意味がある。
 「童子僧正」とあるのは奇妙で、僧正ではなく童子の名かと思われるが、筆跡ではそのようにしか読めない。「たこの和泉の公」(和泉阿闍梨)という人物は前節「日蓮宗初期の寺々」の妙興寺の部分で触れた日弁の弟子であり、その堂の免田は初め千田胤継が中山に寄進したものである。埴谷(半谷とも書く)の小僧とは後に埴谷妙宣寺を開いた日貞の弟子の日英であろう。日英の弟子に千代寿若僧という者がいたように、薬樹若僧もそうした名の弟子と思われる。
 この置文から四〇年ほど後の応永九年(一四〇二)に現在の成田市小菅の妙福寺に建てられた板碑(立正大学所蔵)を見ると、胤貞以下一族と日祐・日胤・日貞らの霊の供養とともに逆修供養をしている一結衆の中に和泉阿日達の名がある。あるいは多古の和泉の公の名を継ぐ者ではないかと推察される。