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六、多古の起こりと千田庄の村郷

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 「多古」または「多胡」の名が文献に初めて登場するのは南北朝時代で、すでに記したように、
  多古村和泉の公堂(日胤譲状) 延文六年(一三六一)
  たこの和泉の公(日貞置文)  応安元年(一三六八)
の例が最も早い時期のものと思われる。同時代の人物として、多古の領主と見られる多古胤氏が『千葉大系図』の千田氏の系譜に登場することもすでに記したとおりである。
 この当時すでに多古村と称していたことは、永和二年(一三七六)の日蓮坐像銘でも明らかである。
 ところで明和四年(一七六七)に書かれた田中軌董の『多胡由来記』は、江戸時代中ごろの伝承や周囲の景観などを記していて、今日では貴重な文献となっているが、それには多古村の起こりについて次のように記されている。
 
「其外(そのほか)村系図由来を穿鑿(せんさく)し古書を引合せ、つらつらおもんみるに、西御屋敷下より広沼下迄(まで)田地なく沼川也。並(ならびに)飯土井河駒木下迄おなじく沼川也。然る故に往古より広沼村といふ。…(中略)…城下には弐三四里一見の大沼にて……沼の中には島村と申す百余軒の民家有り。此の大沼、城の要害とし其景色誠に無類の名地也。然(しか)る処、元禄年中(一六八八~一七〇四)始之頃この沼水引払い新田と成る。……彼の城より鬼門にあたりて大いなる峯有り、其節浅間峯と名付け、則(すなはち)富士浅間(せんげん)を移し奉り近郷の老若参詣群集せり。其頃は皆真言宗にて有りし也。時に元仁(げんにん)元甲申年六月上旬、はじめて富士を祭り浅間ケ峯と号し、其時より始めて田子村と云ふ。其の後、法花(ほっけ)に改宗す。……此時より多く古き村故多古村と相改め、当村中の鬼門守護神と敬ひ奉る也。不二(ふじ)を移し候より田子の浦、不二の高根になぞらえて、峯の裾野は高根と名付けたり」
 
 これによれば、現在の広沼地区から高根地区に至る間を元は広沼村といったらしい。現在、高野前と栗山川の間に、白鳥沼・烏帽子(えぼし)沼の名が字名として残っている。白鳥沼は沖白鳥沼ともいったらしい(加瀬包男著『多胡由来記研究』)。またその南方に辺田(へた)沼の地名も残っており、「広沼」という名はそれら一帯の沼を含む地域の総称のように理解される。『多胡由来記』と題しながら「多胡」のいわれを書いていないのは片手落ちであるが、この記述によれば、
 
 一、元仁元年(一二二四)広沼村を田子村に改めた。
 一、そのいわれは現在の浅間台に祀った富士にちなんだ。
 一、全村真言宗より日蓮宗に改宗した時期から、多く古き村ということで同音の多古に改めた。
 
というのであるが、伝承と著者の考えとの区別が明らかでない。
 『多胡由来記研究』の著者は、そのような語源説は思いつきによる誤解であろうとして、古文書をたどれば、初めは「多湖」、次いで「多胡」「多古」と変遷してきたことは明白であるとして、この地が湖の多い土地であるからと説いている。しかし「多古村和泉公堂」と書き表わされた延文六年の中山法華経寺文書『日胤譲状』より古い文書で「多湖」と書かれた史料は現存しないようである。
 加瀬氏はまた、周辺の沼が減水し始めた当時の多古は桜宮付近にあったらしいと書いている。『多胡由来記』も妙光寺の初めの所在地について、「根本此寺は染井原より引取り……然る故に今に染井と云(いう)也」と記している。この点は、前項で取り上げたような妙光寺関係の文献によっても肯定される。ところで妙光寺および、その前身と推定される村堂の所在地についての表記は次の四通りとなっている。
 
 多古木广(村原)堂(日尊本尊) 原郷御堂→原堂→多古村原堂となったものである。同じ例は妙光寺の日俒(ごん)の本尊の「多胡一結真俗授与之、原妙光寺常住」という脇書きにも見られる。これは天正九年(一五八一)のものであるが、「原」は律令制の原郷が解体して、次第に範囲をせばめ多古村の内の一地域名として残ったと考えられる。
 千田庄多胡村染井妙印山妙光寺(妙光寺蔵、日輝筆『原法華堂供養記』の表書き) この表書きは日輝の本文より後代のものと思われる。この例は前掲『多胡由来記』の記述に近いが、同書は「染井原」と記している。これは「染井・原」と切れるのであろうが、いずれにしても、ここでは染井は多古村の一地域ということになり、原は染井の内の一小字にすぎなくなっていたことになろう。
 小原多胡妙光寺(牛尾胤仲寄進鰐口(わにぐち)銘、天正五年)
 千田庄小原郷多胡村(妙興寺旧記、年度不明、『多胡由来記』による)多古村を含む中位の単位として小原郷があったらしい。
 
 以上のように原郷と小原郷多胡村、多胡村染井、染井原と多古村原等々その変遷は複雑な様相を呈している。ここは加瀬氏のいうように、多古は桜宮付近にあったと概括しておくのが賢明というべきだろう。おそらく古代の原郷が荘園制の中で解体し、多古村・染井村という近世の村にまで分離成長していく過程で、何らかの理由、たとえば領有関係などによって地名の包括関係が揺れ動いたものと考えられる。
 そして多古村は居合の谷から「広沼村」の方向へ発展していき、ついには広沼村を併呑してしまったものであろう。そのように狭い一地域の名前を村名にまで昇格させたその発展条件として考えられるのは、初期には水田の展開とそれに伴う集落の拡大であり、中世末期には銚子・小見川・八日市場方面と佐倉・市川方面とを結ぶ街道の開通ではなかったかと思われる。やがて街道の人馬継立ての宿駅として多古宿が置かれ、それに伴って市街地が形成され、次第に人口が増えることによってこの地方の主邑となったものと思われる。
 この街道、つまり近世の銚子・江戸往還の開通や多古宿の開設を裏付ける文献は、近世の交通の項で取り上げる文禄四年(一五九五)の道中手形を待たなければならないが、徳川家康が天正十八年(一五九〇)に関東入国した際に、保科氏を一万石で多古に封じたのは、この時期の部将配置が北条氏滅亡直後の臨戦体制下の軍事優先であり、房総では北の佐竹氏、南の里見氏に対峙する形で敷いた防衛線の一環であった。したがって交通の要衝が重視されたはずであることを考えれば、当時、多古がすでに交通の要地であったと見て間違いないと思われる。街道の多い関東地方では、宿場町の成立が背景となって城下町が建設されたらしい(芳賀登著『宿場町』)。保科氏の一万石の領地が飯高や五郷内(小見川町)から芝山町の旧千代田村一帯を含むものであったらしいことからも、銚子・江戸往還沿いに領地が配されていたことが十分考えられよう。もちろん多古城の存在も無視できないし、栗山川沼沢地帯をもって防衛線とする考えもあったに違いない。
 戦国時代に、多古を通過する街道が開通したとするならば、その開発者としては、小見川の森山城主から宗家を継いで佐倉城主となった千葉胤富(一五二七~七九)が第一に考えられよう。衰退した千葉氏の中で最後の光彩を放った武将であった胤富の文書には、東総の諸氏に緊急に菱田まで着陣せよと要請する書状や、森山城宛てと思われる伝馬之儀云々の内容の書状が残っている(『千葉県史料』原文書)。千葉氏や原氏が従属した北条氏の小田原を中心として分国間を結ぶ伝馬制度の整備はよく知られており、永禄元年(一五五八)北条氏康は大須賀氏に下総から小田原までの公用伝馬手形を出している(大須賀文書)。上総の東金本漸寺の僧が小田原から帰るときの北条氏の伝馬手形も残っている。下総国内でもそうした街道や宿駅は、軍事上、経済上の必要から次第に整備されていったものと想像される。すでに江戸から佐倉までのいわゆる佐倉道は文明年間(一四六九~八七)、酒々井の根古屋に千葉氏の本城が築かれたとき、西方の臼井城がその支城として重視されるようになって開通されている。江戸幕府の宿駅の制度は北条氏のそれを模倣したもので、銚子・江戸往還の宿駅はそのまま踏襲されたと見てよいであろう。
 最後に多古の地名語源を考える参考までに楠原佑介ほか編の『地名用語語源辞典』『古代地名語源辞典』(東京堂出版)からタコまたはそれに近い発音の項目で関係ありそうなものを適宜引用してみる。〔地〕は前者、〔古〕は後者による。
 
 タコ タカ(高)の転で、高所の意味。各地に見られる地名である〔古〕。タゴの転もあるか〔地〕。
 タゴ 動詞タガウ(違)と関係し、崖など「食い違った地形。段差のある地形」をいったものか〔地〕。
 タコウ・タコオ ①タカ(高)フ(生)・オ(峰)で「高くなった所」をいうか。②タ(田、所その他の意)・コホ(コボツの語幹)の転で、「崩壊地形、浸食地形」をいうか〔地〕。
 タカ (多賀・多可・多珂・田可) 高地のこと。実際に周囲より高い高原状のケースもあるが、自然堤防のような微高地の場合もある。むしろ、平野の中にあって水害を受けることの少ない微高地などをいう場合が多い。したがって瑞祥地名的にも用いられた〔古〕。
 
 ちなみに『常陸風土記』には多珂郡が、『播磨風土記』には託賀郡(後に多可郡)が共に地勢の高い土地の意であると記されており、いずれも山地の多く見られる土地であると、吉田茂樹編『日本地名語源辞典』(新人物往来社)にある。
 九十九里方面には多古田という地名が二、三見られる。このような同音・同系音の地名を全国ことに古代史上房総と関係の深い地方に探って地形上の特徴を調べてみれば、興味深い共通点が浮かび上がり、多古の語源を知る有力な手掛かりが得られるのではなかろうか。