古代の律令制では地方の行政区は国郡の下に里が置かれ、里は後に郷に改められ多く使われるようになった。古代末期に律令制がくずれ荘園や名田ができるが、郷は行政単位としてではなく、単なる地域名として習慣的に用いられていた。
多古町域で『和名抄』に見える郷は原郷・玉作郷・茨城郷・中村郷であったが、古代末期に千田庄が匝瑳北条の内に生まれると、やがて玉作・茨城の二郷は消え、新たに小原郷や大原郷などが生まれている。それらは近世の初めの文書に「千田庄大原之郷林村」とか「水戸郷牛尾村」とあるように庄と村との中間に当たり、後には「高津原郷」などのように村と同格の範囲に用いられるようになっている。
中世末期に荘園制がくずれ、名主層を支配する小領主が大名の被官となっていく過程で村落もそのあり方を変え、戦国乱世に向かう中で次第に共同体としての結び付きを強めていった。
ムラという言葉は古くからあり、郷の下位単位の村も『続(しょく)日本紀』以来各地に見られるという。『日本書紀』では邑と書かれた例が多く、律令では中国にならって村を制定したが公的な行政単位にはならなかった。したがって近世初頭の検地によって行政単位となるまでは、村は自然に人家が集合して暮らしを営んでいる状態を指すものであった。そうした自然村の中心の集落が全国に最も多い地名とされる「中村」であるが、地理的な中心は当然、行政や地域経済でも中心の機能を持つこととなる。当町域の中村はそれが郷の名となったものである。なお、多古町域における「村」の文献上の初出は、中村を除けば前出の妙光寺の日蓮坐像胎内銘の「多古村」の永和二年(一三七六)である。
戦国時代の永禄九年(一五六六)の松崎神社の『北條式地之村』という文書にその周辺の村々の名が記されているが、坂村が親村として載っているほかは、川島は飯高村の枝村、ふう田(方田)は内山村の枝村、また塙は鏑木村、土仏は鳩山村のそれぞれ枝村として載っている(地域史編東松崎参照)。これらの枝村は中世末期に親村の人々によって開発されたもので、川島・方田は後に近世初頭の検地の際に村切りされ、独立した行政村になっている。三倉村から分かれた谷三倉村も同様である。