下総板碑は、下総の飯岡地方産の飯岡石、あるいは常陸の筑波山麓産の黒雲母片(うんもへん)岩(平沢石)、産地未詳の粘板岩などを使った板碑で、佐原を中心に下総の東半部を主な分布地としている。全国で最も多い武蔵(式)板碑は関東の西半部に多く分布しており、武蔵の秩父(ちちぶ)地方産の青石(緑泥(でい)片岩)を使用したものである。
房総地方では下総板碑と武蔵板碑とが最も多い。房総最古の紀年銘をもつものは、正嘉二年(一二五八)の武蔵板碑が君津郡袖(そで)カ浦町にあったが現在は行方不明だそうである。第二は小見川町上小堀の正元元年(一二五九)八月二十四日銘の下総板碑である。次いで同年九月と十月銘の下総板碑(合計三基)が佐原市内で発見されている。なお日本最古のものは埼玉県大里郡江南村にある嘉禄三年(一二二七)板碑である。
下総板碑は武蔵板碑の影響を受けて造られ、その形式は初期にはただ石質が異なるのみであった。谷三倉の下総板碑は日本最古のものから四〇年足らずの後に造られている。
下総板碑の特色は、概して高さに比べて横幅が広く、そのため碑面も横広がりに構成され、二基分を合わせた一石双式板碑の形をとるものも少なくない。武蔵式に多い三角形の頂部とその三角形の底辺にあたる二条の切込み線とが下総式では顕著でなく、その下に彫られている天蓋(がい)・蓮(れん)座や台座の部分にも他地方にない特色があるといわれている。板碑の形式は天蓋・蓮座の下に経偈(題目)、次いで造立趣旨、造立者名を刻む形になっている。
武蔵板碑は多古町には二基しか確認されていない。正応二年(一二八九)の銘のある出沼のもので、角板(かくばん)様と呼ばれているものと、次浦のこそじ墓地から昭和三十年代に出土した、貞和二年(一三四六)六月日の紀年銘のあるものである。
次浦の武蔵式板碑
後者は現在、多古町公民館に展示してあるが、幅一七センチ、高さ五九センチの青石(緑泥片岩)、題目はなく弥陀種子に蓮座と、左右に花を挿した花瓶(かびょう)が刻まれている。この二つの板碑は現在のところ武蔵板碑の分布の最東端に位置し、後者の一三四〇年代は武蔵板碑造立の最盛期であり、前者の一二八〇年代は武蔵板碑としては初期に属すものである。
多古町の板碑を年代的に見ると、鎌倉時代のもの五基(前記谷三倉の一二六五年のもの、以下出沼の一二八九年、次浦の一二九五年、高津原の一三〇三年。次浦の一三二〇年のもの)、室町時代に入ると、ほぼ南北朝期(~一三九二)に当たる十四世紀分か二三基、十五世紀が三一基、十六世紀にはただ一基(一五五〇年)となる。以上六七基が現在確認されている。
このほかに、現在は失われているが記録に残っているものが七基ある。村岡良弼著『下総金石年表略』(明治二三)所載のもの四基、清宮(せいみや)秀堅著『下総国旧事考』(弘化二)第六巻所載のもの二基、吉田東伍著『大日本地名辞書』(明治四〇)所収のもの一基がある。ただし前二著では、単に「碑」として、その年代を記載し、特に「板碑」とはしていないが、一応板碑として含めると総計七四基になる。
現存六七基について、その造立年代を一〇年単位に見ていくと、第1表のように一三六〇年代から一四六〇年代までの百年間が目立って多い。その最高は一四三〇年代の九基であるが、年度としての最高は一四三四年の三基である。
第1表 板碑造立年代 |
年代 | 基数 |
1260 | 1 |
70 | 0 |
80 | 1(武) |
90 | 1 |
1300 | 1 |
10 | 0 |
20 | 1 |
30 | 0 |
40 | 1(武) |
50 | 2 |
60 | 5 |
70 | 6 |
80 | 6 |
90 | 3 |
1400 | 6 |
10 | 4 |
20 | 6 |
30 | 9 |
40 | 5 |
50 | 2 |
60 | 4 |
70 | 0 |
80 | 1 |
90 | 1 |
1500 | 0 |
10 | 0 |
20 | 0 |
30 | 0 |
40 | 0 |
50 | 1 |
60 | 0 |
合計 | 67基 |
(武)は武蔵板碑。点線から上は鎌倉時代。 |
なお千葉県全体の板碑は一八〇〇基で、武蔵板碑一一二二基、下総板碑六七八基である。その内、年代の明確な一六一〇基について見ると、一三四〇年代が最高で一二〇基造られ、一六二〇年代を最後に十七世紀には五〇基造られている。
多古町の板碑に刻まれた経偈・題目は「南無妙法蓮華経」など日蓮宗のものが多い。造立地も日蓮宗寺院の境内および寺院跡に立つものが四四基で、残りは真言宗智山派の二寺院に二基あるほかは、ほとんどが墓地にあり、その他神社、畑地などである。
板碑地域別基数図
地域としては旧中村地区に全体の五七%が集中している。この地域は中山法華経寺の影響力が多古町域で最も強かった所である。板碑所在地域については、後の「近世の石造物と金工品」の第24表(三七二ページ)に示してあるので参照されたい。
板碑造立の目的は追善供養が多いが、生前に来世の安楽を願って建てる逆修板碑も数例あり、追善・逆修を兼ねたものも見られる。個々の碑銘については適宜地域史編の各章に載せてあるので省略する。造立者は無記名のものが多く、また一結衆のものが一〇基ほど見られる。東台の妙見社境内のものは「一結百五十人逆修 (並)先 (亡)廿八人菩提也」とあって、一結衆仲間の逆修と、かつて仲間であった先亡者の追善供養を兼ねている(この碑については地域史編東台参照)。南中徳成寺の長禄五年(一四六一)のものは、一七名の法名を連ねた交名(きょうみょう)板碑として研究者の間で有名なものであるが、南並木の春日神社裏の永享六年(一四三四)のものは、追善・逆修を兼ねて三十余名の法名が記されている。
以上多古町所在の板碑について略述したが、紀年銘については『千葉県史料金石文篇二』によった。また千葉県の板碑に関しては坂詰秀一編『板碑の総合研究2地域編』の「千葉県」(川戸彰氏執筆)の項の資料を使わせていただいた。