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中世城郭の遺構

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 多古町教育委員会は、昭和五十年、城郭研究に造詣の深い篠丸頼彦氏の指導で、多古古城・多古城・源氏堀・並木城・玉造城・三倉城についてその遺構を調査した。翌年刊行された報告書に基づいて、遺構の概要を記しておく。
 多古古城跡は栗山川流域低湿地の西方台地の末端西側にある。この城跡の北には源氏堀(館跡)、南方には多古城跡がある。多古城とは近距離にあり、この三城が一まとまりの相互に関連した機能をもっていたものかどうかは明らかでない。三者とも急崖に臨み、背後には平坦な台地が続いている。
 年代的には古城が文字どおり最も古く、次いで源氏堀、多古城の順ではないかと推定される。多古城は戦国期に多少改修されたらしい遺構が認められるが、古城にはそれが見えない。古城には西南方の一部に腰曲輪(こしくるわ)状の一画が認められるほかには土塁・堀の跡もなく、城というよりは館跡というべきものであろう。
 多古古城より年代は下ると思われるが、その北方に位置する源氏堀もやはり中世初期の館の跡と見られている。館跡としては北総地方の数ある中でも旧状をよく伝えているものであろう。北・西・南の方向は急崖であり、東方は土塁で区切られている。ゲンジ堀の名で伝えられていて前記報告書では一応源氏の字を当てているが、この名の由来も明らかでない。
 多古城は台地東端に位置して、城域の西南を空堀でさえぎり、東側には四段状に腰曲輪を構え、北側には物見台に格好な小高地があるなど防禦に工夫した跡が見られる。ことに腰曲輪の遺構は戦国期後半に改修したものではないかと篠丸頼彦氏は記されている。
 並木城跡は栗山川をはさんで多古城と相対する台地の西南端にあり、やはり三方が崖の要害の地を占めている。台地の南と西は低湿地で、ことに栗山川沿いの湿地は明治中期の耕地整理までは湿原で、通行はほとんど不可能であったと思われる。主郭防備のために北・東側には二重の高い土塁や深い堀の跡が見られ、南側は腰曲輪をもっている。
 この城は多古町の城跡中では最大の規模をもち、遺構も最もよく保たれているが、特徴的なのは、土塁跡に見られる屏風折(びょうぶおれ)である。屏風折は塀や土塁・石塁・空堀に設ける鍵形の屈折で、側面から横矢をかける目的で設けられたものである。戦国期から次第に現われ始め、天正以後の城普請に盛んに採用されており、そのころの築城法に見られる特色の一つとされている。そうした点から、この城はおそらく天正ごろの普請に改築されたものと思われるが、徳川家康の関東入国、保科氏多古入部の天正十八年(一五九〇)以降には、そうした普請は考えられないので、それ以前ということになるであろうか。
 玉造城跡は南玉造字南台にあり、栗山川東方の台地の北部東側に突き出た台地上に、三方を急崖にさえぎられた位置を占めている。現在三方にめぐらされた土塁が一部ではよく旧態をとどめており、南北に分かれた郭(くるわ)の間は深い空堀になっている。南の郭の南側にも空堀があったものかと推定されるが、廃城後の元和元年(一六一五)この地に得城寺が創建されたため、この方角の土塁はだいぶ崩され、堀も埋められたものと考えられている。

玉造城絵図

 三倉城跡は、本町北端の本三倉台地の東北部にある。この城は前記諸城とは自然条件が異なり、天然の地形を利用できず、空堀はほとんど人工によっている。特に北からの敵に備えて堀を二重にし、その間に土塁を設けている。この城は本町内でも小城の方であるが、中世城郭の遺構はよく伝えられており、敵の攻撃に対する見張り場所、腰曲輪などの配置は「戦国期に入って実戦に備えての感が深い」と篠丸氏は評価されている。