千葉胤直の滅亡後、馬加康胤が第十七代千葉介を継いだが、上杉氏は胤直とともに自刃した賢胤の子の実胤・自(より)胤を助けて市川城を与え千葉家を再興させた。康胤はその後、千田庄をはじめ下総東部一帯を支配下に置いており、中村郷の中城にいた中村但馬守も馬加勢に滅ぼされたと伝えられている。
しかし、千葉氏の内紛を憂えた一族の東常縁(とうのつねより)は、当時高名の歌人で京にあったが、将軍義政の教書を請けて急ぎ下総東庄の領地に帰ると国中の諸将を集めて康胤を攻め、翌康正二年(一四五六)康胤は敗死した。一方、足利成氏に市川城を追われ、武蔵石浜・赤塚城に拠った実胤と自胤は武蔵千葉介を称して下総の千葉氏と対立した。こうして千葉氏は成氏方と上杉方の二大勢力を背景にした二流に分かれて争ったため、統制力を失って急激にその力は衰えていった。
房総では千葉氏に代わって安房の里見氏、上総の武田氏が台頭し、さらに相模の小田原に起こった北条氏が西から力を伸ばし、北からはそれに対抗して上杉氏を助ける長尾氏(上杉謙信)が進出した。
文明三年(一四七一)成氏は上杉顕定に敗れ古河に帰ったが、古河城は長尾景信に攻められて落城し、佐倉城の千葉孝胤(康胤の子、第二十代)を頼った。多古町御所台に成氏がしばらく居館したというのはこの時のことである。
しかし房総の諸将は成氏を助け結集して上杉方に当たり、成氏は文明四年再び古河城へもどった。文明十年、成氏と上杉は和睦したが、武蔵の千葉自胤と対抗していた千葉孝胤はこれに反対したので、上杉方の太田道灌は成氏の承諾を得た上でこれを攻めた。境根(さかいね)ガ原の合戦で孝胤方は原・木内らの諸将が討死し、臼井城に敗退した。翌十一年、自胤と太田資忠(道灌の弟)の軍は臼井城をも落としたが、資忠は戦死した。さらに自胤と道灌は上総を攻めて武田氏を降した。その後、孝胤は佐倉から出撃して臼井城を回復した。
明応六年(一四九七)成氏が死に、永正二年(一五〇五)には千葉孝胤が死んで、それを継いだ勝胤は小田原北条氏に属し、北条氏綱と姻籍関係を結んだ。
成氏の後、古河公方は子政氏、孫高基が継いだが、高基の弟義明は上総の真里谷(まりやつ)に迎えられ、永正十四年(一五一七)下総南部に勢威をふるった原胤隆の小弓城を奪って小弓御所を称した。高基は北条氏や千葉氏・原氏を頼り、義明は上総・安房の諸氏の支援を得て勢力を争った。
天文六年(一五三七)真里谷信隆が北条氏に応じたため真里谷氏は分裂し、信隆は義明と里見氏に敗れて北条氏綱を頼った。翌年氏綱は葛西城を落とし、国府台で義明を討ち取り、里見氏は敗走した。
この後、房総地方は北条方の千葉氏・原氏と里見氏の対立の時代に入るが、永禄七年(一五六四)国府台において里見義弘・太田三楽らは北条氏政と戦って敗退した。しかし永禄九年には上杉謙信と里見義弘は下総臼井城を攻囲している。また里見氏の将正木大膳亮時茂は弘治元年(一五五五)十月千葉に乱入、永禄三年(一五六〇)にはその弟の正木時忠が海上・香取地方に侵入して小見川城に拠っている。時忠はこの時、『東国戦記』によれば、八日市場台で迎え撃つ鏑木入道らを破っているが、同九年大須賀氏に敗れて下総から退いている。また同四年には正木時茂は原胤貞の臼井・小弓両城を落としたが、同七年までに両城は胤貞に取りもどされている。時茂は元亀二年(一五七一)再び小弓城を攻め落とし船橋まで侵入したが、この時は間もなく退陣している。
以上の間、千葉氏は勝胤(『千葉大系図』第二十一代)から昌胤(二二)・利胤(二三)・親胤(二四)・胤富(二五)・邦胤(二六)・重胤(二七)と続いているが、天正十八年七月には、服属していた北条氏が豊臣秀吉によって滅され、小田原に参陣していた重胤や原氏を初めとする千葉氏勢力は潰滅するに至った。
秀吉麾下の浅野長吉・木村常陸介や徳川家康の臣内藤家長・酒井家次らはその年五月に両総の諸城を攻め、主力を小田原へ送っていた諸城はほとんど戦わずして落城した。下総の各地には五月初めの日付の浅野・木村連署の禁制が下されている(八日市場見徳寺、香取大戸神社、佐倉勝胤寺など)。そして八月一日の家康の関東入国により、房総の戦国時代は終幕を迎えたのであった。
要約すれば戦国期の下総は、千葉氏の衰退のために周りの諸勢力の抗争の渦中に巻き込まれ、そこに複雑な角逐が展開されるが、ようやく安定した支配を確立するかに見えた北条氏が一挙に滅び去って中世の幕を閉じたということになる。