ビューア該当ページ

千田庄の支配者と寺々の動向

174 ~ 181 / 1069ページ
 天文二十四年(一五五五)、次いで天正七年(一五七九)の千田庄付近の情勢を伝える二つの文書が中山法華経寺に残っている。千葉胤直父子を滅した原胤房の子孫である原胤貞・胤栄(たねよし)父子が同寺に宛てたものである。原氏は『千葉大系図』によれば第十五代千葉介兼胤の弟四郎胤高を祖としている。

 

 系図では胤貞は胤定に作られ、胤栄の祖父となっているが、次の文書では父とされており『総葉概録』も父としている。胤貞は千葉胤富の臣ではあるが、臼井・小弓の両城主としてその勢力は主家をしのいでいた。当時の俚諺に「千葉は百騎、原は千騎」と言いはやされていたほどであった。
 
 ① 千田・北條両庄之内、御門徒御出家之上沙汰之事。莵角(とかく)寺家可御許(計カ)候。為後日一札如件。
    天文廿四年乙卯六月廿三日                               原孫次郎胤貞(花押)
   法華経寺
     御同宿中
 
 ②一、本末之仕置、如先代住寺(持)下知、不背(そむく)法度事。
  一、如亡父胤貞一札、千田・北條両庄之内之御門徒之御出家之上之沙汰之事。莵角(とかく)可寺家之御計、爾者不異儀候事。
  一、寺領之事、隣郷知行之仁等、毎度令-乱私領之境、致違乱之甚以不然。於自今以後者、不越境之妨事。
  一、於当寺狼藉事。
   右此等之条々、於違背輩者、可重科之状如件。
     天正七年己卯六月                                 原式部大夫胤栄(在判)
    法華経寺
 
 胤栄は②の三年前にこれとよく似た趣旨の判物(はんもつ)を南中の峯妙興寺にも出している。
 
 ③ 於当寺峯妙興寺僧俗共ニ不諸沙汰殊ニ横合(よこあい)狼藉等之儀堅致禁制処也。若此旨有違曲輩者則可罪科也。
  仍為後證啓(まうさしむ)状如件。
     天正四年丙子正月廿七日                                  原胤栄(花押)
    妙興寺 御同宿中
 
 〔注〕「横合」は局外者(横手、かたわらの者)の不当な妨害の意で「横合非分」、「横合無道」ともいう。「同宿」は師と同じ寺内に修行している僧のこと。

原胤栄判物(峯妙興寺蔵)

 ③の形式は普通の禁制であり、おそらく同文の制札が妙興寺の門前に立てられたはずである。制札は、軍兵の乱暴を禁止するよう寺社や村落・市場などが武将に制札銭を献じて下付してもらったもので、武将にとって重要な軍資金の財源であった。おそらく妙興寺もそれを出して頼んだのだろうが、当時の治安の乱れをも示している。
 さて①②③を通じての問題は「沙汰」の意味と内容である。「沙汰」は本来は理非曲直を明らかにすることであるが、中世には政務の裁断、裁判、年貢の貢納、土地の支配などの意味に用いられ、上からは命令、下では責務の遂行という二面の意味に使われている。①と、②の第一・二項は中山法華経寺の末寺統制権の確認と、その継承、追認である。したがって③で妙興寺において、僧俗につき諸沙汰の介入を排除するということは、当時の状況が明らかでないが、中山の支配権に抵触することになるはずである。もしそうであれば、その三年後に出された②は、③の妙興寺に与えた禁制を否定したことになるのである。
 十六世紀の中・後期にかけて、千田・北條両庄の末寺では、門徒・出家の講組織に本寺・末寺の間の、あるいは門徒・出家の間の法則を破る何らかの動きがあって、原氏はいったんは末寺と、その門徒である在地武士層の要求に従って③の判物を与えたのであるが、三年後には中山と関係をもつ北条氏や古河公方の圧力で、それをくつがえし、法華経寺の統制権を認めざるをえなかったのではなかろうか。千田庄・匝瑳北條庄の末寺ではこの間に何が起こっていたのであろうか。
 当時、中山法華経寺の貫首は第十世日俒(ごん)(一五一五~九八)と第十一世日典(~一六一七)の時期で、日俒の在任年代は一五二四~一五七三年である。日俒は中山の外護者である千葉氏の出身であったらしい。その精力的な教化により教団の結束を固めるとともに、衰退の気運にあった教団に活力を注入したと『中山法華経寺誌』(昭和五六)の歴代譜は記している。日俒三十一歳の天文十四年(一五四五)正月、古河公方足利晴氏は中山に対し「諸法華宗の頂上、本寺たるべし」という安堵状を下している。天文七年(一五三八)の国府台の合戦で晴氏と北条氏綱が勝利して下総西部を勢力下に置いていた時期である。
 教団の結束をはかる仕事の第一は本寺と地方の末寺との関係強化であり、一門の統制を確立することであった。『中山法華経寺誌』は「関東の動乱と中山門流」の項で、日俒の当時の活動について次のように述べている。
 
「千葉氏が没落すると、各村落の有力農民たちが力を持ちはじめ、その地の寺院に参加して信仰の上でも重要な役割を果たすようになる。日俒はこのような動向を鋭敏に捉えて、各地の講集団の再編成を行った。かれは千田庄の末寺で行われる大規模な法華経一千部読誦会(え)に、しばしば導師として臨み『常住本尊』を書き与えた。特に天正年間(一五七三~九二)になると盛んにこれを行い、曼荼羅(まんだら)本尊の下部に、この法会に参加した人びとの交名(きょうみょう)を記したりした。法会への参加は『題目講一結衆』と称され、その寺との深い関わりを従来からもち、将来も関係を維持すべく要請された人びとである。現在に伝わる日俒の曼荼羅本尊によると、大堀賢徳寺(天正三年)、安久山円静寺(天正五年)。唐竹妙光寺(天正三、五年)、多古妙光寺(天正九年)などの諸寺で、盛大な法華経の読誦会が行われている。いまや、千葉氏一族の手による法会から、多数の農民を集めた宗教行事へと、千田庄における信仰集団の社会的変質が行われたのである。
 千田庄における元亀・天正期の宗教活動は、実に目醒ましいものであった。千葉氏の力が昔日の面影をまったく失った今、千葉氏の拠点となる寺院を二、三カ寺も確保しておけば、庄内における中山法華経寺の勢力は安泰であるという時代は、すでに過去のものとなっていた。庄内の各村落では、新しく成長した農民たちが、千葉氏一族の支配を脱して、村落の主役として力強く登場してきた」(補注①参照)
 
〔補注〕
①戦国時代に日俒ら中山法華経寺の僧が与えた曼荼羅本尊の授与者や交名には次のような名前が見られる。唐竹妙光寺、天正五年日俒本尊(山室治部左衛門・平山和泉守日助・同七郎右衛門・同主水佑・同忠右衛門・尾川主計助・大木次郎右衛門尉・那須新右衛門尉・小河神左衛門尉)、同、天正九年日典本尊(那須勘解由)、同、文禄四年日晄本尊(山崎清右衛門・坂兵庫)。島正覚寺、天文二十二年日饒本尊(平山四郎右衛門尉)。大原大谷家蔵、元亀四年日俒本尊(佐野右馬助・土井七郎左衛門尉・山本四郎左衛門尉・佐藤新兵衛・平山三七郎)。南玉造秋山家蔵、天正十二年日典本尊(野平右衛門尉)(以上『中山法華経寺史料』による)。
 
 以上の文脈の中に先に掲げた文書を置いてみると、「御門徒御出家」の動きはおぼろげながらわかってくるのであるが、原氏は「新しく成長し」「村落の主役として力強く登場してきた」農民や在地武土層の要求にこたえて、妙興寺に「就僧俗共ニ不諸沙汰」と安堵を与えたのであろう。日俒の活動はそうした村落への強力なてこ入れであった。三年後、情勢が変わって、たぶん中山が北条氏を通して③を修正させたのが②であるとも考えられる。本寺と末寺の立場が相反するものであれば、同じような内容の文書も反対の意味になりかねない。
 いずれにしても中山のとった「本末の仕置」は相当強い統制であったと見てよい。次の島妙光寺に下した安堵状も①と②の間の時期のもので、妙光寺の末寺統制権を認めたものである。
 
 本覚山妙光寺諸末寺之事、如前代当住寺之可御儘(まま)也。仍為後証状如件。
   弘治三年(一五五七)正月廿一日                                原 胤貞(花押)
  嶋坊日義 御同宿中
 
 ともあれ千田庄の周辺は戦国期、少なくも一五五五年から七九年にかけて、さらに一五九〇年の小田原北条氏の滅亡までは、一時期を除いては北条氏に服属した原氏の実質的支配下にあったようである。例外的な一時期というのは、里見氏の将正木大膳亮時茂が妙興寺に寺中での狼藉を禁じた制札を立てた元亀三年(一五七二)ごろのことをさしている(地域史編南中、妙興寺の項参照)。この時期、正木一族がしきりに下総各地を侵していたことは前条に触れたとおりで、時茂は同じころ、香取神宮や香取真福寺(現在、新福寺)にも制札を下している。香取地方のみならず千田庄も一時期、正木氏の占領下にあったものと見られる。
 原氏はその後、千田庄・匝瑳北条庄周辺を回復して支配を続けるが、千葉氏・原氏の支配地の中の「所々の小城は、北条より主将を入れ置き」と『総葉概録』がいうように、北条氏は要地に部将を送り込んでいたようである。
 日本寺所蔵文書の中に次のような北条氏政の判物の写しが残っている。
 
 当寺中永代守護可不入若横合非分令出来(しゅったい)者、為先此證文可披露候。速可糺明候。仍後状如件。
   天正十五年(一五八七)丁亥十一月二十二日                           北条氏政(在判)
  日本寺
 
 氏政は国府台合戦のおり中山法華経寺をその陣所にした時から貫首の日俒と特別懇意であった。故あって日俒が中村へ隠退し東福寺に移った時、氏政に寺地を所望して丸山の地に寺を移転し、その名も日本寺と改めたのであるが、氏政はさらに台所料十五石を寄付している。この判物はその時のものと思われる。『三巻抄中』と表書きした日本寺所蔵文書には、その表題下に「氏政守護不入之状有之仍(よっ)て従(より)権現様相続御朱印アルナリ」と書入れがあって、巻頭に徳川家康の寄進状が筆写されている。原氏は実質的には北条氏の一部将に転落し、北条氏の支配力がこの地に及んでいたことを裏付けている。
 このような情勢下で、千田庄在住の諸氏はそれぞれの城砦に割拠しながらも、いったん千葉氏や原氏の陣触れが下ればその軍役を勤め、各地を転戦したものと思われる。毛利家文書の『北条家人数付』に見える「一、千葉介 相(総)州さくらの城三千騎 一、原大炊介(おおいのすけ) 臼井城 弐千騎(中略)合三万四千弐百五拾騎 是ハ氏直分国惣人数積也」の中に千田庄の諸氏も含まれていたはずである(ただし同文書『関東八州城之覚』には「下総臼井城 原大炊介 二千五百キ」とある)。なお一騎は普通二百石を有する武士で、一〇人(一説に五人)の士卒を従えているものをいっている。
 戦国時代にこの地域に割拠したと伝えられる在地領主には、初め多古城にいた飯土井氏、または三浦入道を滅して多古城主となったという牛尾氏(胤仲)(補注②参照)、北条氏に属して活躍したという壺岡城の平山氏(季助とその子光義・季邦)および飯高城・松崎城の平山氏(時常・常時父子)、牛尾氏を滅して多古城に拠り、周辺五二村を領有したといわれる山武郡飯櫃の山室氏(氏勝)、そのほか矢作城の国分氏に攻略された玉造城の野平氏(常義)、あるいは水戸城の水戸谷(みとざく)氏(有義)、正木氏と戦ったといわれる松崎大明神宮司の松崎式部などがあった。それら各氏の事蹟については地域史編の各項に譲るが、合戦としては以上の城攻め合戦のほか、飯高の平山氏と飯土井氏が数度戦ったという飯土井沼合戦のことを『多胡由来記』は伝えている。千葉氏ら大名の支配に従属しながらも、その下で各自の領域の保持・拡大に努めて争っていたのである。なお、牛尾・船越一帯は戦国時代末期には、上総大台城(芝山町)の井田氏の所領であったらしい(『横芝町史』)。
 
〔補注〕
②元亀(一五七〇~七三)ごろの千葉胤富の井田平三郎宛ての書状に、里見方の城攻略のため「氏政も加勢之儀所望候、原十郎昨日以牛尾申上候」とあり(『千葉県史料』神保文書)、牛尾氏は当時、原十郎の手に属し、北条氏へ援軍の使者に立っていることが知られる。
 
 しかし、天正十八年(一五九〇)小田原落城の際、千葉氏・原氏ら下総勢は主力を小田原へ送っていたため、そこで討ち死にした者も多かったと思われるが、留守を突いた豊臣・徳川の軍に房総の諸城はたちまち陥落した。引き続き徳川氏が関東入国し、家臣団を各地に配備して新しい支配体制が敷かれ、兵農分離政策が推進されると、残った武士たちはほとんど帰農し、中には出家する者もあった。壺岡城の平山氏は江戸時代初期、子孫が分立して平山五軒党を称するが、新しい支配者からは郷士として遇されている。
 桧木の小川家文書に、千葉介の後裔が各地の帰農した旧臣の子孫を順訪することを知らせる慶応四年(一八六八)の廻状が残っている。前回は文政七年(一八二四)に訪ねたという。宛先は香取・海上・匝瑳・武射・山辺郡三六カ村の四五人で、小川氏から回されたものであるが、多古町域では出沼村穴沢氏、三倉村富沢氏・越川氏、次浦村佐藤氏・藤崎氏、大門村五木田氏・平山氏、高津原村菅沢氏・多田氏、石成村松本氏・鈴木氏などの名が記されており、それらは旧名主系の家筋であったと考えられる。この地は実質的には原氏の支配下にありながらも、千葉氏とのきずなは失われることはなかったものと思われる。