ビューア該当ページ

序説

184 ~ 186 / 1069ページ
 応仁元年(一四六七)に起こった応仁の乱に始まる戦国時代は、織田信長・豊臣秀吉によって全国が統一されて終結した。一世紀余に及ぶ戦国争乱は、中世を通じて残存してきた古代的支配体制を打ちくずし、各地に新しい大名を生み出した。戦国大名はそれぞれ領国を形成して互いに覇を競ったが、その中で最も大胆に革新的であった信長と、その最も有能な継承者である秀吉によって覇権は掌握されたのであった。さらにそれを受け継いだ徳川家康の江戸幕府によって近世の封建制度が完成され、以後二百六十余年にわたる太平の世が到来した。
 関東地方では、天正十八年(一五九〇)小田原の北条氏が秀吉によって滅ぼされ、代わって家康が関東六カ国の領主として入国するが、以後明治維新に至るまで戦らしい戦は起こらなかった。家康の関東入国から江戸幕府の開設する慶長八年(一六〇三)までは主に桃山時代に当たるが、この時期は関東地方にとって近世の序章といってよい時期であった。領主の家康が将軍職に就いたため、その支配がそのまま幕藩体制に発展していったからである。このため本書では家康入国からを近世として扱った。
 北条氏滅亡直後、秀吉から関東移封を命じられた家康は、祖先以来の三河を初め、二十余年辛苦を重ねて経略してきた駿遠甲信の五州を放棄して天正十八年八月一日江戸に入り、直ちに家臣団を北条氏の旧地である関東六カ国に配置した。この時、多古には信州高遠(たかとお)から保科氏が移ってきた。
 この時の家臣の配置のしかたは、後の関ケ原合戦の戦後処理や、幕藩体制下の大名配置の雛型ともいわれるような構造となっている。当時、関東の四辺には安房の里見氏、常陸の佐竹氏・芦名氏、下野の宇都宮氏など旧来の土着の大名が残っており、北には越後の上杉氏が会津に入っていた。また、滅びたとはいえ、北条氏以下の土着勢力の抵抗にも備えなければならなかった。したがって、それらに対する備えとして有力部将を前線に置き、江戸付近は旗本で固めるとともに、家臣の系統(譜代、旧三河の国衆、旧今川・武田・北条系の帰参組など)によって、それらを網の目のように組み合わせて各地に配置している。保科氏は武田からの帰参組であり、一門衆の松平(久松)康元は下総関宿に入っている。
 またその家臣たちにとっては、それまでの土着的な兵農一致の生活から根こそぎされて関東の新天地に移し替えられたわけで、城下町居住の近世的な武士の生活形態に転換していく新しい経験が始まったのであった。
 海内を制覇した秀吉の政策に象徴されるのは刀狩りと兵農分離であるが、それと結び付いた重要な政策が、全国的に強行された、いわゆる太閤検地であった。これは「一地一作人」の原則で百姓身分を定め、中世以来の重層的な土地の支配関係、権利関係による中間搾取を排除して、土着していた武士と農民とを切り離そうとするものであったから、各地の土豪層の強い抵抗を招き、多数の隷属農民を使役する経営形態の残っていた後進地域では一揆がしきりに起こっている。奥州の検地奉行浅野長政に宛てた秀吉の書状には、反対者はたとえ城主であっても斬り捨て、一、二郷ことごとくなで斬りにして村が亡所になってもかまわないから強行せよといっている。そのためにも刀狩りと兵農分離は必要であったのである。
 この検地によって、年貢を負担する小農の自立を推進し、耕作権を保償すると同時に、農民を土地にしばりつけ、自由に他の土地へ移ることが禁止されたのであった。また刀を捨てて土着の道を選んだ武士層は農民身分として村落に定着することになり、耕作農民を領主が直接掌握するようになった。
 一方、城下に集住することになった武士もその身分は確立したが、やがて江戸幕府の制定した武家諸法度(はっと)によってきびしい規制を受けることになり、諸大名も将軍によって統制され改易(えき)・転封が自由に行われるようになった。
 武士の城下への集住とともに商業・手工業も城下町へ集中する政策が進められ、農民の商品的作物の栽培、加工食品の販売が禁止または制限された。また農民の没落、零細化を防止するため土地売買の禁止、一町歩以下の農民の分割相続の制限が行われた。このような規制のほかに農民に対しては、衣食住をはじめ生活の細部にわたって干渉し、徹底した節約が奨励され勧農が行われた。すべて封建制度を維持するためにとられた農民収奪の政策であった。
 近世の村は年貢を負担する本百姓を主体に構成され、その中の有力者から選ばれた村役人(名主・組頭・百姓代)が領主から割り付けられた年貢の収納に当たるなど、行政機構の末端を担うとともに一定の自治機能をも果たしたのであった。村にはこのほかに、水呑みなどと称されて土地を持たず村役なども負担せず一人前と見なされない階層もあった。
 以上、主として近世初頭の情勢と農民および村落に関して概略を記した。以下六節に分けて当町域の近世の状況を通観するが、特定の地域を一例として説く場合が多く、各地域を満遍なく取り上げることができなかった。したがって各地域の詳細については地域史編各章をご覧いただきたい。
 なお、多古町域には近世の初めに三九カ村が成立し、後に谷新田村が生まれて四〇カ村となっている。谷新田はその後中村新田と名を改めたように、旧村名には現在の地域名と多少異なっているものが幾つかある。その変更の時期を明確にすることは意外に困難であり、時期によって書き分けるのは煩瑣でもあるので、本書では旧村名は現行の地域名を用いることとした。ただし引用文献の中では原文どおりに記載してある。