慶長七年(一六〇二)秋、保科氏が高遠に去った後、その旧領(一万石)の内、多古村付近の五千石は、同九年越中国新川郡野々市一万石の土方(ひじかた)河内守雄久(おひさ)(かつひさとも)に加増分として与えられた。多古に役所が置かれたが、その領域は多古村・林村の他は明らかでない。雄久は同十三年十一月に没し、翌年二月、その子掃部頭雄重(かもんのかみかつしげ)が相続した。元和八年(一六二二)大坂陣の功により五千石加えられ、多古領を改めて陸奥国菊多郡の内に一万石を賜わり、窪田(くぼた)(現在勿来(なこそ)市内)に藩庁を移して窪田藩二万石を起こしている。
土方氏は雄久の父信治が織田信長に仕えて若くして討死、雄久(一五五三~一六〇八)は信長の子信雄(のぶお)に仕えて功を上げその諱字を与えられている。信雄が豊臣秀吉と対立したとき軍功で尾張国犬山四万五千石を与えられた。天正十八年信雄が配流の後は秀吉に仕え、同十九年野々市一万石を与えられた。慶長四年家康と石田三成不和の際に家康暗殺の容疑で追放され、佐竹義重のもとに蟄居した。翌年小山の陣に召し出され、前田利長に使して利長に北国平定をさせている。後、秀忠に近侍して再び野々市一万石を与えられ、河内守に任じた。
雄重(一五九二~一六二六)は秀忠の小姓となり、父の遺領を継いで掃部頭に叙任された。陸奥に移封後、二代にして罪を得て土方氏は断絶している。なお雄重の兄雄氏の伊勢国薦(こも)野藩一万二千石があり、明治まで続いている。
地域史編林の「村の支配者」の項に載せる『古来より林村之御領主』と題する古文書によれば、土方氏がこの地を拝領したとき、奉行加茂宮治兵衛が実地検分によって水帳(検地帳)を整備し、村民から名奉行として尊敬されたと伝えられている。
土方氏移領の後はしばらくは幕府直轄地となり、関東代官頭長谷川七左衛門が支配している。