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三、佐倉藩諸氏

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 慶長十五年(一六一〇)から寛永十一年(一六三四)までの約二五年間、多古町域の一部は佐倉藩主、土井利勝・石川忠総の領地となった。石川氏が転封となった翌年の寛永十二年には、その領域の内、多古その他の数カ村は分立して松平(久松)氏の知行地となり、残りの石成・林村ほかは依然佐倉藩領として残り、以後、松平、堀田、松平、大久保、戸田の諸氏が領している。各氏の佐倉藩統治年代およびその知行高は次のとおりである。
 
  土井大炊頭(おおいのかみ)利勝 (一六一〇~一六三三 慶長一五~寛永一〇) 一四万二千石
  石川主殿頭(とのものかみ)忠総 (一六三三~三四 寛永一〇~一一) 七万石
  松平[紀伊守家信 若狭守康信] (一六三五~四〇 寛永一二~一七) 四万石
  堀田[加賀守正盛 上野介正信] (一六四二~六〇 寛永一九~万治三) 一一万石
  松平和泉守乗久 (一六六一~七八 寛文元~延宝六) 六万石
  大久保加賀守忠朝 (一六七八~八六 延宝六~貞享三) 八万三千石
  戸田[山城守忠昌 能登守忠実] (一六八六~一七〇一 貞享三~元禄一四) 六万七千八百石
 
 戸田氏をもって佐倉藩の石成・林村などの支配は終わり、以後、それらの地は旗本諸氏の知行地となっている。ただし石成と林村以外がどの範囲かは明らかでない。なお佐倉藩は、慶長十九年安房の里見氏が改易になって以後は房総では最大の大藩であった。
 土井利勝(一五七三~一六四四)は三河刈谷城主水野信元の庶子として生まれた。土井利昌の養子となり、秀忠に属して天正十九年一千石から、慶長七年小見川一万石となり、同十五年(一六一〇)佐倉三万二千四百石に移って老中となった。大坂陣で大功を立て以後加増を重ねて寛永二年には十四万二千石となったが、これは佐倉藩歴代中で最大の領地である。慶長十五年と寛永八年(一六三一)には領内検地を実施した。後者の検地では香取・海上・匝瑳・印旛の諸郡にわたって村々の面積および村高が年貢増徴のために増加させられている。寛永十年一万八千石を加恩されて十六万石で古河へ移り、後には大老になっている。
 また、鹿島山に新たに佐倉城を築城したり(旧城は本佐倉にあった)、江戸上野寛永寺を建立するなど土木建築工事に手腕を発揮しているが、領内でも民政に意を注いで産業振興に努め、植林を奨め、溜池・堤防を築き、用水溝を引くなど盛んに土木工事を起こした。
 船越村では今も残る「大炊堤(おおいづつみ)」を築いた。これは「十八町堤」ともいわれるように延長一八町(約二キロメートル)、高さ二・四~三メートル、馬踏(うまふみ)(上幅)三・六メートル、堤敷(下幅)七・二メートルという当時としては一大土木工事であり、領内農民に大量の夫役が課せられたものと思われる。かつて栗山川は夏秋の雨期には容易に満水となったので、この堤は例年の水害から農民を救う画期的な事業であり、広大な低湿地の新田開発がこれによって可能となったのである。なお慶応二年の船越村の絵図には「大炊新堤」と記されている。初期のものを延長したのか、あるいは大幅に改修したものか明らかでない。

大炊堤

 近世初期にはこのような大工事が盛んに行われ、水田の拡大と経営の安定によって農業生産力の向上発展が図られたが、幕藩体制はこうした生産力の発展の上に成立したといわれている。
 土井氏以後の佐倉藩主については、多古に関して特筆すべき事跡は残っていないので、繁を避けて省略する。土井利勝のほか堀田正盛・戸田忠昌が老中に列していることを付記しておく。