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二、多古松平氏歴代

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 多古の松平氏は初祖勝俊(康俊)から、多古に入った第三代勝義を経て、第十二代勝慈(なり)に至って明治維新を迎えている。

久松松平家系譜

 初祖久松源三郎勝俊(一五五二~八六)は、後に家康より松平の姓と諱の一字を賜わり松平康俊と改めた。父は久松佐渡守俊勝、母は家康と同じお大、後の伝通院である。永禄三年(一五六〇)家康が久松氏を訪ねた時、初めて拝謁したのであるが、家康に兄弟がなかったため久松三兄弟は弟として同姓と諱の一字と葵(あおい)の紋とを与えられたのである。徳川家の紋は葵を巴(ともえ)型に三つ組み合わせたもので葵鞆絵(ともえ)の御紋といわれるが、久松松平家では六つ葵を使用している。
 康俊は永禄六年、十二歳のとき、家康の命により今川氏真(うじざね)のもとへ人質として預けられた。その五年目永禄十一年の十二月、武田信玄が氏真を攻めて駿府に入ったとき、氏真にそむいた三浦与一郎某に伴われて信玄の陣におもむき、それを喜んだ信玄によってさらに甲州に送られた。その後元亀元年(一五七〇)十九歳の冬、家康の計略によって甲州を脱出し、三河へ帰ることができたが、このとき大雪の山越えのために凍傷となり、両足先を失ってしまった。
 家康は幼少からの忠勤ぶりに感銘し、一文字の刀(一の字の銘を刻した、鎌倉時代、備前の刀工の作)と当麻(たいま)の脇差(南北朝時代、大和当麻寺付近に住んだ刀工の作)および山形十文字の槍を与え、天正十一年(一五八三)には駿河久能(くのう)城七千石の城主に取り立てている。しかし康俊は足の障害のため出陣できず、病気がちとなって同十四年三十五歳で没した。
 第二代勝政(一五七三~一六三五)は織田家の臣水野藤次郎忠分(ちか)の五男で、勝俊には従弟に当たり、初め藤八郎と称していた。康俊の没後、伝通院の願いにより康俊の女に配し、その跡を相続させた。その婚儀に家康から「山道の真壺」(一名松嶋)を賜った。勝政の長兄分(わけ)長は家康に仕え、安房・上総で一万五千石を領し、他の兄も大名・旗本として一家を興している。
 勝政は養父の通称源三郎を襲名、後に従五位下豊前守に叙任された。文禄元年(一五九二)水野藤八郎のとき千五百石を賜り、朝鮮の役には肥前名護屋の陣に、ついで関ケ原の合戦にも家康に従っている。
 慶長六年(一六〇一)松平家に入るが、これより先、天正十四年(一五八六)康俊の女に家康から龗蛇頭(りょうじゃとう)(口絵参照)を賜っている。松平家では代々これを伝え、現在は同家から多古町に寄贈され町役場で保管している。それにまつわる伝承が口述書として付けられており、それによれば、「この竜頭はその昔京都御所に夜な夜な怪物が出現し、そのため御所内で病魔が絶えなかった。それで当家(久松)の先祖がこれを弓で射落とした。その為に病魔が絶えたとの由、それを記念し久松家に下し賜ったものである。また明治の初期に旱魃(かんばつ)が続き、農民が困っている時に、この竜頭にお供えをし酒をかけてやり雨乞いをしたら大雨が降り農民に大いに喜ばれたとの由」(昭和五十三年十月六日書)とある。
 勝政は、慶長七年(一六〇二)千石の加増を受け、翌年叙任されて豊前(ぶぜん)守と改めている。慶長十九年と翌元和元年の大坂の陣に家康に供奉(ぐぶ)し、夏の陣には鳥毛抛鞘(なげざや)の槍一対と床机(しょうぎ)を賜った。抛鞘は毛皮製で、末端を長く折り垂らした形のもの、その鞘に鷹の羽を束ねて飾ったものである。
 元和五年(一六一九)大番頭(がしら)に任ぜられ、寛永九年(一六三二)駿河大納言忠長が退去した後の駿府城番を勤め、翌年には城代として三千石加増されて八千石となり、与力一〇騎同心五〇人を預けられた。寛永十二年六十三歳で没した。
 
 〔注〕大番頭は江戸・大坂・二条・駿府城を交替警固する大番組の長。組は一二組あり、五千石から一万石級の旗本・大名が勤めた。

松平勝政墓(静岡市)

 第三代【多古初代】勝義(一六〇二~七〇)は勝政の長子で伏見で生まれた。初め源三郎、因幡(いなば)守を称した。寛永十二年家督を継ぎ豊前守と改めるとともに、近江国の八千石の知行地を上総国武射郡、下総国香取郡の内に拝領し、この時から多古を居所とすることになった。同時に禄高三千石以上の非役の旗本組である寄合に列した。寛永十四年初めて多古へ行く暇(いとま)を賜り、以後それを慣例としている。
 承応三年(一六五四)大番頭となり、寛文四年(一六六四)には大坂城在番を命じられた。翌年正月二日、天守閣に落雷があったとき、勝義は駆けつけてかつて家康の用いた金扇の馬標(うまじるし)と下知状を運び出したことが四代将軍家綱に聞こえ、賞詞が上使によって伝えられている。寛文十年(一六七〇)六十五歳で没した(六十九歳ともいう)。

松平勝義墓(京都府宇治市万福寺)

 第四代【多古第二代】勝易(やす)(一六二三~八〇)は勝義の次男で江戸に生まれた。兄の備中守勝就(なり)が部屋住の内に死亡したため嫡子となり、寛文十年(一六七〇)相続した。初め勝忠、次いで兵部、半左衛門と改め、寛文十二年、豊前守に叙任された。
 相続の際、弟二人に各五百石の分知を願って許された。勝義の四男織部勝光、六男半十郎勝郷(初め勝忠)の二人が分知を受けた。七男宇右衛門勝秀は別に家を興したが、その嫡孫権七郎勝延は本家に入って第七代を継いでいる。
 勝易は寛文十年、江戸城書院番頭となった。同年、知行地の内、大寺村を転じて下総国葛飾郡、上総国武射・長柄・山辺の四郡の内七カ村を拝領した。椿新田を開墾した功労によるといわれている。延宝元年(一六七三)初めて多古へ行く暇を賜った。同二年大番頭へ進む。同四年駿府城代を命ぜられ、前記上総三郡で二千石加増になり、すべて九千石を知行した。同八年駿府城中で没した。五十八歳であった。
 第五代【多古第三代】勝以(ゆき)(一六六一~一七二八)は勝易の末弟権之助で江戸に生まれた。勝易に子がないため養子を願って許され、半左衛門を襲名した。延宝四年(一六七六)甲斐守と改め、同八年家督を継いだ。
 貞享元年(一六八四)松平修理亮(しゅりのすけ)重治が所領没収になったため、命により上総佐貫城請取におもむき、これを守衛した。元禄八年(一六九五)定火消役、同十年御小姓組番頭、同十一年尾州への御使、同十二年書院番頭、同十三年駿府在番を歴任した。宝永四年(一七〇七)には大納言家宣(のぶ)(後の第六代将軍)の世子家千代の傅(もり)役となり、大蔵少輔(おおくらのしょう)と改め、その年家宣の側役となっている。
 正徳三年(一七一三)大坂城定番となって摂津国嶋上・嶋下郡の内で三千石加増され、都合一万二千石となって大名の列に入り、ここに多古藩が成立した。享保二年(一七一七)先祖康俊女拝領の龗蛇頭を将軍吉宗の上覧に入れている。同七年大小の鉄砲三〇挺を拝領、同九年には大坂表役宅類焼につき造作料を下賜された。同十年三月、病気のため願いによりその役を免ぜられ、八月摂津領を下野の内に換賜されている。同十三年、六十八歳で没した。
 第六代【多古第四代】勝房(一七〇五~四六)は勝以(ゆき)の長男で、初め源三郎、のち美濃守、大内記と改め、享保十三年(一七二八)に相続した。同十四年、実子がなかったため進物御番松平宇右衛門勝久の長子で小普請組福島左兵衛支配の権七郎勝延を養子とした。同二十一年病のため隠居し、延享三年(一七四六)四十二歳で没した。
 第七代【多古第五代】勝尹(ただ)(一七一三~六八)は勝房の養子権七郎勝延(第四代勝易の弟勝秀の孫)で、源三郎、玄蕃頭(げんばのかみ)、大蔵少輔、豊前守と称した。享保二十一年(一七三六)家督を継ぐ。元文二年(一七三七)日光祭礼奉行、同四年同奉行代、寛保二年(一七四二)同奉行代を勤める。延享二年(一七四五)大番頭となり、同四年病のため御役御免となる。寛延二年(一七四九)三月、初めて領地多古へ半年間行く暇を賜った。明和五年(一七六八)五十六歳で没した。

松平勝尹筆跡

 第八代【多古第六代】勝全(たけ)(一七五〇~九六)は勝尹(ただ)の長男で、初め源三郎、のち豊前守と改めた。明和五年(一七六八)家督を継ぎ、翌年六月初めて多古へ行く暇を賜った。安永九年(一七八〇)より一年半、大坂加番となり、寛政六年(一七九四)病のため辞任して隠居、同八年四十七歳で没した。
 
 〔注〕加番は人数不足の際に助ける職。
 
 第九代【多古第七代】勝升(ゆき)(一七七八~一八一八)は勝全(たけ)の長男で、初め辰次郎、源三郎、中務少輔(なかつかさのしょう)、大蔵少輔、後に豊前守と称した。寛政六年(一七九四)襲封し、翌七年二月初めて封地多古へ行く半年の暇を賜った。同年九月より文政元年(一八一八)八月までしばしば江戸城各門の番役を勤めた。文政元年四十一歳で死去した。
 
 〔注〕江戸城門警備は譜代衆を中心に任命され、石高により担当の門が決まっていた。
 
 第十代【多古第八代】勝権(のり)(一八〇六~六八)は井伊掃部頭(かもんのかみ)直中の五男で、文化十二年(一八一五)勝升(ゆき)の養子となった。初め雄三郎、源三郎、相模守と改めた。文政元年(一八一八)封を継ぎ、同九年半年間多古へ行く暇を賜った。
 文政十年(一八二七)より天保十一年(一八四〇)まで江戸城各門番役を勤める。文政十二年九月、右大将家慶(よし)(後の第十二代将軍)山王宮参詣の帰途、井伊家へ立ち寄った際、実家の先例により一族御目見(おめみえ)が願どおり仰せ付けられ、黄金一枚と太刀一腰を献上し、白縮緬(ちりめん)一〇巻を拝領した。天保十四年将軍家慶大成殿(湯島聖堂)参詣の辻固め、翌年家斎(なり)正室広大院葬送の辻固めを勤める。天保十年妾腹の男子信之助を嫡子として届け源三郎と改名する。弘化三年(一八四六)三月大目付稲生出羽守より、当家にて一重腰黒乗物、同日覆羅背板(らせいた)(羅紗の一種)を用いている儀について尋ねられ、これは大坂の陣で家康の茶臼(ちゃうす)山本陣に二代勝政が床机(しょうぎ)代を勤めた由緒(ゆいしょ)で昔から用いていると答申している。
 弘化三年七月、命により監護人、元長崎唐大通事神代(くましろ)徳次郎を預けられた。
 嘉永元年(一八四八)四月には将軍家増上寺参詣の帰途の後固めを勤めているが、十月病気により隠居した。明治元年(一八六八)六十三歳で死去した。

松平勝権筆跡

 第十一代【多古第九代】勝行(一八三一~六八)は初め信之助、源三郎、豊後守、後に大蔵少輔と改めた。嘉永元年家督を継ぐ。同二年二月十五日、初めて半年間、多古へ行く暇を賜った。五月通達があり、六月大目付柳生播磨守へ、古来のとおり挾箱(はさみばこ)金摺付(すりつけ)紋葵、ただし平常は二重革と引戸一重腰黒の乗物を用いることを答申した。
 嘉永二年七月三日夜、監護人神代徳次郎を多古の西屋敷に造った揚屋(あがりや)(牢)から逃亡させた罪で、十二月に閉門を命ぜられた。翌年五月に赦(ゆる)されたが、十二月に領地下総・上総の内一万四百三十三石余を陸奥国楢葉(ならは)郡・石川郡の内八千三百二十八石余に換賜された。表高一万二千石は変わらなかったが二千百石余の減石となった(後述「神代徳次郎逃去事件と陸奥への村替え」参照)。
 嘉永三年八月、湯島聖堂にある学問所の出火の節、聖像(孔子像)遷座役を勤め、翌年二月に終わった。同六年将軍家慶寛永寺参詣の警固、同七年同寺墓参帰途の警固を勤める。安政二年(一八五五)正月二十八日、吹上(ふきあげ)花壇馬場にてにわかに馬術上覧の儀仰せ出され、御馬を拝借して参加した。
 安政二年大坂加番代を勤めて翌年交替、同四年馬場先門、翌年一ツ橋門の門番役、同六年日光祭礼奉行代を勤めた。同年十月一日吹上における乗馬上覧に参加、同十七日本丸炎上のとき一ツ橋門警衛に出馬、後に褒詞を受けている。安政七年日光祭礼奉行、万延元年(一八六〇)将軍家茂(もち)の法事参詣帰途の警固、同年和宮(かずのみや)下向の際の辻固めなどを勤めた。
 文久二年(一八六二)閏八月、京都二条城定番となり役料三千石を賜わり、与力二〇騎、同心一〇〇人が配属された。翌三年正月辞職したが、寺町通本禅寺に寄宿し、三月将軍上洛の際には参内(だい)に供奉(ぐぶ)しており、六月再び二条城に勤番、八月一日には皇居への進献使を勤め、このとき願い出て鳳輦(ほうれん)と庭園を拝見している。同月十八日京都の政情不穏のため二条城内の警衛指揮に就いた。文久四年(一八六四)正月十三日、城内東小屋破損につき奉行へ引渡し、妙心寺塔頭(たっちゅう)退蔵院へ寄宿し、同十五日将軍入城につき御目見して上意を受けた。同十九日鶴庖丁ならびに舞楽拝見に参内し御膳・燗酒調理鶴肉を頂戴している。同月二十七日将軍とともに参内して天皇に拝顔し勅書を拝した。二十九日その御礼を二条関白に言上に伺う。元治元年(一八六四、二月改元)四月、組下の市中見廻りを命じられる。五月将軍帰還につき城内手薄となり東小屋へ移る。七月豊後守を大蔵少輔に改める。十一月五日、上総国小関村外二カ所で起きた浪人の騒動について捕方人数を差し出した件につき褒詞を受けた(後述「真忠組騒動」参照)。十二月御所御台所門内警衛を命じられた。
 元治二年正月二日伝奏野々宮中納言からの御達(たっし)により、四日年始に参内、小(こ)御所で拝顔、鶴之間で料理を頂く。十五日御台所門内警備を免ぜられる。五月七日「脱走の賊徒暴行に及び候ところ追討のため速(すみや)かに人数差出し」たと(『多古藩主松平氏系譜』)あるが、この賊徒については不明である。
 
 〔注〕以上は『寛政重修諸家譜』『多古藩主松平(久松)氏系譜』などによったが、前者は寛政期の編纂でそれ以後がなく、後者は第八代勝全(たけ)の項が欠け、第十一代勝行の項も元治二年五月で終わっている。
 
 勝行はこの後、慶応二年(一八六六)京都の勤めを辞して江戸へ帰り、明治元年(一八六八)二月、本姓である久松に復している。同二年六月、版籍奉還で封土を奉還し、同時に多古藩知藩事に任命された(知藩事は七月に藩知事と改称されている。)同年八月、三十八歳で没した。(慶応四年一月以降については後掲「明治維新の多古藩」参照。)
 勝行夫人栄子(一八三四~九五)は岡崎藩主本多忠考(ただたか)の長女で、才学に富み如雪の号で絵をよくした。俳諧も四世夜雪庵近藤金羅(一八三〇~九四)に学んで秀句を詠んだと伝えられている。
 第十二代【多古第十代】勝慈(なり)(一八五五~一九〇四)は勝行の長男で、初め源三郎、明治二年六月豊前守と改め、十月家督を継いで多古藩知事に就任したが、同四年七月廃藩置県で多古県藩知事となり東京在住を命ぜられた。明治十七年子爵に列し、明治二十二年四月より初代多古村長となり、同三十年三月まで在職した。明治三十七年五十歳で没した。
 久松家はその後、勝親、勝広と継がれ現在に至っている。
 久松家代々の墓所は、勝以(ゆき)以後は江戸下谷の禅宗白泉寺(現在は移転して東京都豊島区巣鴨)に、勝権(のり)以後は多古町南中の妙興寺にある。また初祖康俊の墓は静岡県浜松市富塚の西来院に、勝政・勝易の墓は静岡市慈悲尾増善寺に、勝義の墓は京都府宇治市万福寺にある。

久松家墓所 上 東京都巣鴨白泉寺


久松家墓所 下 南中峰妙興寺