次に武鑑によって歴代の藩重臣を表示しておく(橋本博編、名著刊行会版『大武鑑』による)。襲名する場合があり、諱が記してないので、同名でも同一人物とは限らない。また原典の誤字と思われる前後の異同もそのまま収載した。
歴代重臣一覧 | |||||
年代 | 藩主 | 家老 | 用人 | 城使 | その他 |
享保三年 (一七一八) | 松平大蔵少輔勝以 | 服部与五右衛門 中村安之丞 服部段之進 多賀平太夫 | 大木佐野右衛門 村瀬茂兵衛 伊藤四郎右衛門 | 田中伝右衛門 神宿与右衛門 | (嫡子勝房付) 森孫右衛門 |
享保一七年 (一七三二) | 美濃守勝房 | 根岸治兵衛 原安右衛門 服部段之進 | 伊藤四郎右衛門 坂井十左衛門 中村元右衛門 | 田中伝右衛門 河野藤右衛門 | |
元文六年 (一七四一) | 玄蕃頭勝尹 | 原安右衛門 服部段之進 | 伊藤四郎右衛門 酒井十左衛門 村瀬定之丞 | 田中伝右衛門 上月兵橘 | |
延享四年 (一七四七) | 大蔵少輔勝尹 | 原安右衛門 服部与五右衛門 村瀬茂兵衛 | 伊藤四郎右衛門 清水佐助 | 上月兵橘 児島又市 | |
宝暦五年 (一七五五) | 豊前守勝尹 | 服部与五右衛門 村瀬茂兵衛 | 根岸治兵衛 原佐次馬 小幡弥右衛門 清水佐助 森川小兵衛 上月兵橘 上月孫二郎 平野清左衛門 大木半平 | 上月兵橘 上月小隼太 | |
宝暦一三年 (一七六三) | 豊前守勝尹 | 服部与五右衛門 村瀬茂兵衛 上月兵橘 根岸治兵衛 | 原佐治馬 清水佐内 小幡弥右衛門 上月孫次郎 大木佐野右衛門 保木旌之助 河野藤左衛門 | 上月孫次郎 森本 | |
安永二年 (一七七三) | 豊前守勝全 | 服部与五左衛門 村瀬茂兵衛 根岸治兵衛 | |||
天明四年 (一七八四) | 豊前守勝全 | 村瀬茂兵衛 村瀬定之進 根岸治兵衛 |
年代 | 藩主 | 家老 | 用人 | 城使 | その他 |
寛政三年 (一七九一) | 豊前守勝全 | 久松安兵衛 森本伝蔵 | |||
享和三年 (一八〇三) | 中務少輔勝升 | 久松安兵衛 大木義右衛門 寺井平兵衛 | |||
文化六年 (一八〇九) | 久松安兵衛 寺井平兵衛 | ||||
文政六年 (一八二三) | 源三郎勝権 | 平野清右衛門 都筑四郎兵衛 | |||
天保四年 (一八三三) | 相模守勝権 | 平野清右衛門 鵜沢雅右衛門 高橋勘作 | (嫡子傅役) 鵜沢牧太 | ||
天保一四年 (一八四三) | 相模守勝権 | 平野清右衛門 鵜沢雅右衛門 高橋勘作 | |||
弘化四年 (一八四七) | 相模守勝権 | 平野清右衛門 鵜沢雅右衛門 高橋勘作 | 鵜沢牧太 平野数馬 吉野要八 | (番頭) 岡部素助 寺井仁兵衛 | |
嘉永四年 (一八五一) | 豊後守勝行 | 平野数馬 寺井平兵衛 | (側用人) 野村安右衛門 | 辻弥門 (城使) | |
安政元年 (一八五四) | 寺井栄次郎 庄庄(ママ)五郎 野村安右衛門 辻弥左衛門 桑尾此面 (側用人) 服部来助 | 辻弥門 (添役) 桑尾此面 (番頭) 清水仁兵衛 原佐治馬 佐藤泰蔵 (城使) 辻弥左衛門 (添役) 今井宗馬 | (傅役) 鵜沢牧太 | ||
万延元年 (一八六〇) | 豊後守勝行 | 平野清右衛門 寺井平兵衛 | 清水仁兵衛 辻弥左衛門 | (番頭) 高橋和助 | (傅役) 佐藤泰蔵 |
文久元年 (一八六一) | 桑尾此面 | 吉野真角 中川伊左衛門 寺井民之進 (側用人) 原左治馬 佐藤泰蔵 | 辻斎宮 吉野要八 (城使) 辻弥左衛門 (添役) 服部来助 |
年代 | 藩主 | 家老 | 用人 | 城使 | その他 |
元治元年 (一八六四) | 豊後守勝行 | 平野数馬 寺井平兵衛 | 桑尾此面 清水仁兵衛 原佐治馬 辻斎宮 | (番頭) 野村又兵衛 小倉肇 都築伝 (城使) 辻弥左衛門 (添役) 服部来助 | (傅役) 佐藤泰蔵 |
慶応二年 (一八六六) | 大蔵少輔勝行 | 桑尾岡右衛門 辻弥左衛門 | 高橋重介 原佐治馬 | (番頭) 小倉肇 | (傅役) 佐藤泰蔵 |
慶応三年 (一八六七) | 中川伊左衛門 佐藤泰造 辻斎宮 野村又兵衛 (側用人) 野村又兵衛 | 都筑伝 清水義兵衛 (城使) 服部来助 (添役) 寺井啓次 | |||
明治元年 (一八六八) | 大蔵少輔勝行 | 桑尾岡右衛門 辻弥左衛門 高橋勘作 | 原左治馬 中川伊左衛門 佐藤泰造 辻斎宮 野村又兵衛 (側用人) 小倉肇 | (番頭) 都筑伝 清水義兵衛 辻厚之丞 今井宗馬 関谷喜右衛門 服部来助 平野景介 寺井平兵衛 小倉肇 (城使) (添役) 服部来助 寺井啓次 | |
明治二年 (一八六九) | 久松大蔵少輔勝行 | (留守居) 服部来助 |
以上の藩士のうちで特にその事跡が伝わっているのは、松平勝義・勝以(ゆき)に仕えた家老、服部与五左衛門(享保六・一七二一没)ぐらいであろうか。服部与五左衛門は寛文九年(一六六九)柏熊から坂並に至る一帯の新田を開発し、その田は服部新田と称された。柏熊の正岳寺と坂並の本福寺にあるその墓は住民が報恩のために建てたものである。柏熊のものは寛政四年(一七九二)に建てられている。