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八、真忠組騒動への出兵

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 文久三年(一八六三)十一月十二日から翌年一月十七日にかけて、九十九里地方で真忠組騒動が起こった。真忠組とは、浪人楠(くすのき)音次郎・三浦帯刀(たてわき)ら武士六名が、山武郡小関村に本拠を置き、同地方の農漁村の次三男など一八〇名余を組織し、貧民救済と鎖国攘夷を唱えて〝世直し〟活動を行ったものであるが、小前百姓や貧窮民の支持を得て運動は次第に広がり、過激化していった。幕府はそれを反徒と見なし鎮圧の命令を発した。『五十嵐家日記』の文久四年一月の条には次のような通達が書き留められている。
 
 上総筋在々浪人共横行品々如何之及所業候に付関東御取締出役馬場俊蔵被(され)差遣(つかは)右浪士共召捕方手配いたし候に付而者(ついては)同人より懸合(かけあひ)次第、銘々主人共居城、又者陣屋等江兼而(かねて)相詰罷(まかり)在候人数差出、時宜に寄他領にても近辺一同脇合召捕方行届候様取計、且手向いたし候はゞ旧臘御触有之候通相心得、打殺候ても切殺候とも不苦候間、其旨一同相心得、右之趣早々国許へ可申遣旨被仰渡候。
 
 この指示は当時将軍が上洛中だったので、勘定奉行の留守居役から多古藩の江戸詰重役宛てに出されたようで、江戸からは藩士ももどり陣屋の警衛を固めている。多古藩・佐倉藩・一宮藩および東金付近に飛び地のあった福島藩に出動命令が出て、関東取締出役の指揮下に総勢一、五〇〇名が真忠組の三拠点を急襲した。正月十七日一日で真忠組は壊滅し、幹部は討死するか、または召し捕られた。東金町西福寺に臨時白洲(しらす)が設けられて取調べが行われ、各藩がこれを警固した。死罪獄門および遠島に処せられた者数十人、連類者千余人は放免された。
 
 正月十七日、御陣屋御人数八日市場村出張、左五郎、鉄太郎、玄徳人数江差加へ被召連候。
 十八日、十九日、廿日、八日市場滞留、廿一日無難帰相成申候。
 十七日、佐倉御人数諸士弐百五十人余通行。同日、八州取締中川孫市都合三手出張。
 廿一日、佐倉御人数帰城、多古泊り。
 二月七日、東金町江出張に付御人数先達之通り出る。
(『五十嵐家日記』)

 多古藩一個小隊は、八日市場村福善寺の山内額太郎を隊長とする支隊を攻撃したが、緒戦には苦戦したとも伝えられている。また騒動の周辺村々は、残党が潜んでいるので渡舟場その他を見張るようにと関東取締中川孫市から命ぜられ、一月二十二日、多古村に南中・南並木・南借当・入山崎・大堀・南和田・北中・南玉造の村役人が集まって指示を受けている。ついで二月三日には取締出役渡辺慎次郎から、真忠組に金品拠出を強制させられた者、逃亡の際の遺留品をまだ届けていない者は至急届け出よと達しがあった。
 一月二十三日から飯土井橋では、多古村八名、北中村八名、井戸山村四名、金原村三名、片子村一名、東台村二名、合計二六名が一三名ずつ一日交代で見張った。その見張りの費用が六月になって六カ村へ割り当てられている。何日ぐらい見張ったのかわからないが、その廻状では「春中」となっている。費用の総額は二八貫七三文(七両余)であった(『北中村御用留』による)。
 三月、多古藩の東金へ出動していた隊が帰陣し、晦日には、八日市場および東金への出動費用を領内各村に割り当て、十五日までに上納せよと命じている。多古村四〇両余、南中村二四両余、井野村七両余、南並木村六両余、南借当村五両余、合計八四両余であった(『五十嵐家日記』による)。
 ところが『北中区有文書』を見ると、同年四月(二月に元治に改元されている)には、別に次のような拠出金を負担している。
 
  上総小関村江集被致候浪人者御仕置に相成候。右入用東金町江助合左之通り。
 一、金四百両 東金町最寄(もより)六ケ組割合
     但し高千石に付金五両壱分弐朱余
 一、金弐百両 海辺拾ケ組江割合
     但し高千石に付金弐両余
 一、金五拾両 多古組 笹本組 加茂組 一ツ松村組 高根本郷組 岩沼村組
  右之通組合村詰之上来る五日迄東金町江相届可申事。
    元治元甲子四月三日
 
 『五十嵐家日記』掲載の分は上納であり、『北中区有文書』所収のものは町村同士の助合いであろうが、両文書とも互いに片方が欠落したものと思われる。
 なお当時藩主松平勝行は二条城定番として京都にあったが、『多古藩主松平氏系譜』には次のように記されている。「元治元年十一月五日、上総国小関村外弐ケ所、浪人共暴行に付(つき)捕方(とりかた)人数差出候に付御褒詞被成下
 この年には三月に水戸の天狗党の筑波山挙兵があり、前々からこの地方には水戸浪士はじめ浪人、浮浪の徒が横行し、その取締の触書が関東取締出役からしばしば出されていて、多古藩も警戒に当たっていたが、八月からは一カ月ほど潮来方面に出動している。