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九、明治維新の多古藩

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 慶応四年(一八六八)一月、鳥羽・伏見の戦で旧幕府軍は敗れ、前年王政復古を宣言した新政府に対し恭順の意を表わすため、多古藩は二月に家老を上洛させた。四月八日、藩主勝行は討幕軍の東海道先鋒総督府に上書した。
 
 先般、王政復古被仰出候に付ては、累代奉天恩候、固(もと)より勤王之外(ほか)他念無御座、愈(いよいよ)朝命に遵(したがひ)奉仕度赤心に御座候。久々病気に罷在候に付、先為(して)名代重臣之者を上京為(せ)仕、身分相応之御用被(られ)仰付被(れ)下置候様仕度、願書太政(だじょう)官弁事御役所へ既ニ奉願置候儀にて、御先鋒御総督府へ右同様毛頭二念無御座候間、何卒(なにとぞ)身分相応之御用被仰付下置候はゞ冥加至極難有仕合に奉存候。恐惶謹言。
   慶応四戊辰年四月八日                             久松大蔵少輔勝行(印)
(『明治戊辰房総戦乱記』房総叢書第五巻)

 勝行はこの年二月二十四日に松平姓を本姓の久松にもどしているが、これは鳥羽・伏見の戦で朝敵となった徳川家との関係をはばかったためである。このころ勝行は上洛しているが、必ずしも病気を装っていたのではなく、翌年八月五日三十八歳で没しているところを見ると、心労もあってか病気がちであったようである。
 四月十一日討幕軍は江戸に入城したので多古藩は使者を総督府に送った。
 
 大蔵少輔領分、下総国香取郡多古陣屋附本領に御座候間、東海道鎮撫御総督府様へ別紙写之通願書、去八日御参謀方御附属衆稲津甚四郎殿を以進達仕候。就(ついて)は下野国都賀(つが)郡・河内郡之内三千石之采地御座候間、同所御通行之砌(みぎり)は、何卒尚相応之御用被仰付候はゞ、難有仕合に奉存候。此段以使者申上候。以上。
   慶応四戊辰年四月十八日                          久松大蔵少輔使者
                                             辻弥左衛門
                                             服部来助
(『房総戦乱記』)

 また『北中村御用留』によれば、同日夕方、すでに解体した関東取締出役に代わって、多古陣屋から組合村々へ次のような通達が出されている。
 
 以急使其意候。然(しかれ)は今般官軍兵粮(ひゃうらう)賄(まかなひ)向に付、大竹左馬太郎様より被仰渡候趣、左に
 一、高百石に付白米三表(俵)但四斗入
 一、同断   金三両づゝ
 右者品川宿官軍賄所江可相納旨被仰渡候間、組合村々集件之上取斗(はからひ)申渡、尤(もっとも)当月廿九日迄に急度(きっと)上納可仕旨に御座候。此段御達申候。此状披見次第御名主中之内へ御出仕可下候。以上。
   四月十八日夕
                                           多古役人印
                                            組合村々江
 
 「御名主」となっているのは多古領外も含むとはいえ低姿勢の通達である。
 これらと前後して、それまで病気と称していた藩主勝行も上洛している。
 戊辰(ぼしん)戦争には多古藩は出兵せず、総野鎮撫(ちんぶ)府の命で香取郡内の警備に当たっていた。総野は両総、下野の意で、鎮撫府は五月二十七日の房総諸藩への達書(たっしがき)では古河駅に置かれ、佐倉藩が房総への触頭を命ぜられていた。
 在京していた勝行は多古近辺に凶徒が出没するという知らせのため暇(いとま)を得て帰藩し、次のような書状を大総督府に差し出している。
 
 私在所近辺一種之兇(きょう)党致暴行候に付従(より)御先鋒御総督卿御達御座候間、御暇奉願候処、願之通被下置、今七日多古陣屋へ着仕候間、猶(なほ)又人数相増、領地並(ならびに)近傍共為鎮撫家来之者日夜巡邏為仕候。此段御届申上候。以上。
   六月七日
                                          久松大蔵少輔
(『房総戦乱記』)

 六月二十三日の総野鎮撫府の達書では、多古藩は領内のみならず近傍の旧旗本采地の鎮撫を命ぜられて、香取郡内八二カ村の取締のため、以来頻繁に巡邏隊を出して見回っている。このときは鎮撫府は宇都宮にあり、七月に長官の鍋島直大(なおひろ)が免ぜられて解散している。
 十月には、水戸藩騒動の脱走者、書生派(諸生党)が下総に乱入し、匝瑳郡松山村(八日市場市)において同藩の天狗派との間で六日に戦争が行われた。いわゆる松山戦争で、多古藩からは巡邏隊が出動した。江戸にあった勝行は多古からの知らせに基づいて次のように総督府へ報告を出している。
 
 私在所下総国多古陣屋より東之方へ当り、昨六日昼八ツ時頃、遙(はるか)に大砲、小銃之音相聞、不容易相心得候に付巡邏隊差出候処、同国松山村辺にて水藩脱走之由にて、卒然と戦争有之由報告有之、依て陣屋許(もと)へ兼て備置候兵隊、迅速に出張仕候段、以急飛脚在所表家来共より申越候。猶委細之義は追々可申上候得共(そうらえども)、不取敢(とりあえず)此段御届申上候。以上。
   十月七日                                       松平大蔵少輔
 
 去る七日不取敢御届仕置候通、下総国匝瑳郡松山村辺にて戦争相始り候旨注進に付、兼て陣屋へ備置候兵隊早速出張仕候得共、何者之取合に候哉(や)、模様不相分猥(みだり)に応援も仕兼候間、先(まづ)斥候(せっこう)差出候処、最早(もはや)鎮静相成申候。依て右松山村名主共呼出相尋候処、水戸至誠隊百人程、尾葉(生尾)村と申所之役人共に案内為致、松山村迄着候処、同藩会稽(かいけい)組凡(およそ)六百人程と、忽(こつ)然取合に相成、暮六字(時)頃、至誠隊敗走、山鍬(山桑)村通り散乱致し、又会稽組には八日市場之方へ引揚げ候趣申出候。然(しかれ)ば全私戦と奉存候。依之同所近辺巡邏仕、夜十二字頃帰陣仕候。其後持場村々探索取締等、厳重に仕居候旨、在所表より申越候。此段御届申上候。以上。
   十月十日                                       松平大蔵少輔
(『房総戦乱記』)

 十月十九日、勝行は病気のため勤番不可能のため帰藩療養を許された。

松平勝行筆『昇龍図』

 翌明治二年六月、多古藩は封土を奉還し、同四年七月廃藩置県となり、多古ほかの下総の諸藩はそれぞれその名の県と改められた。
 維新後の多古藩の組織および石高などについては、新政府が諸藩に提出させたと見られる二種の資料がある。一つは明治初年、太政官が調査し、修史局が編纂したらしい『藩制一覧』で、その多古藩の項には次のようにある(日本史籍協会叢書本による)。
 
  多古藩
   官制 不詳
   平章隊 一小半隊 役人十二人
   大砲 一門 役人三人 砲手七人
   大参事  原左治馬 野村隼太
   権大参事 小倉肇 辻興弥 服部来助 寺井実太郎
   少参事  平野景介 高橋寛 大木但見
   権少参事 関谷喜右衛門 並木吉兵衛 寺井啓治
 
 他の一つは、明治五年に大蔵省が調査した「旧諸侯」の表で、明治十八年に『明治政覧』(細川広世編)に収められたものである(原書房、明治百年史叢書本による)。
 
 久松勝慈(官位)豊前守。(治所・藩名)下総国香取郡。多古。(領地草高)一万二千石。(領地現石)二千七百五十石。(士卒人員)百十九人。(士卒禄)千三百八十八石。(置府県名)新治。
 
 一小隊は他藩の例を見ると平均五十名ぐらいで、四十名ぐらいの藩もある。士卒百十九人とあるが、多古藩の士族は約七十人であったから、残りは卒で、農兵も含まれているものと思われる。したがって一小隊は四十名ぐらい、一小半隊で六十名ぐらいではなかったかと推定される。平章隊の名は『書経』から採ったと思われるが、公平で明らかな新政という期待を表わしているのであろう。
 士卒禄(俸給)は平均すると一人あたり一一・七石になるが、上士と卒を含めて平均しても意味がないかもしれない。また『明治政覧』はこの「旧諸侯」の表について、「此士卒人員及其禄高等を以て之を封建盛代のものとなすを得ず、如何となれば維新以降廃藩に至る迄各藩々治の改革により士卒の禄を減ずる事区々にして其甚しきは十中八九を減ずるものあり、或は士卒の人員を減じ或は無禄の士なるものあり(中略)今旧時各藩の士卒人員及禄高等は之を探るに由なきを以て玆(ここ)には明治五年大蔵省の調査せし事実に依りて表出す」と前書きしている。
 東総三郡と常陸の一部によって新治(にいはり)県が設けられたのは明治四年十一月で、「旧諸侯」の表は廃藩置県の翌年かつての支配状況を調べたものである。『藩制一覧』の方は廃藩になる前の調査である。
 『藩制一覧』は別に年貢の明細や村数・戸数・人口その他についても載せている。多古藩の場合、年貢は二通り示されている。
 
  ○多古藩
  拝領高壱万弐千石
   (外)込高新田改出高
  高弐千百七拾三石一斗二升六合三勺六才
  五ケ年平均
  正租 米弐千二百四拾二石五斗二升七合二勺七才 米納
     米弐百三十八石五斗五升九合九勺四才
      此代永六百九貫九拾三文
     米二百二拾一石六斗四升三合九勺
      此代永三百二拾二貫百五拾六文八分三厘
     永百三十八貫九百二十五文五分
      此米三百四十七石三斗壱升三合七勺五才
     永四百三十四文一分六厘 永方
       内
    米二千九百六石七升四合二勺 米納
    米五百四十九石三斗五升九合 [定石青束石代永納]
     此代永百一貫七百七十文八分
    米五百四十九石三斗五升九合 [永納両に三石七升二合替]
     此代永百七拾八貫八百二十七文八分
    永二百七十四貫七百拾五文六分 永方
  雑税 米二百九十三石八斗四升八合二勺
     永百二十八貫四百二文四分一厘八毛
     鐚(びた)九百六文
     永二貫百六十五文
     米二十九石二升二合六勺
      此代永七拾五貫九百七拾五文八分
     米十二石六斗二升壱合
      此代永三拾一貫七百五十八文九分三厘
     米三拾一石一斗三合
      此代永七貫九百四十二文五分四厘
     大豆一石八斗三升二合
      此代永四貫四百九十文二分
  (以下九行原朱書)
  一本
  正租
  高米弐千七百二石七斗二升八合六才
   永五百七十六貫弐百六十九文六分六厘
  雑税
   米三百六十六石五斗九升四合八勺
   永百三十貫七百三文三分一厘八毛
   永四貫四百九十文弐分
   大豆一石八斗三升二合 [代両に四斗八合]
  村数 十八村
  戸数 千四百六十八軒
  人員 七千二百四十一人 内 [男三千七百六十五人 女三千四百七十六人]
 
 村数その他は、野州・奥州の領地を含んだものと思われるが、多古本領五、下野領七、陸奥領一三、合計二五カ村の数に合わない。石高からいって領域は同じと考えられるが、村の統合があったものか、この事情は明らかでない。石高は内高一四、一七三石余となるが、「旧諸侯」の表にある現石(年貢高)二、七五〇石は、『藩政一覧』の正租の高米にほぼ等しい。これを内高で割れば二〇%内外の年貢率になる。なお、二通り年貢明細が示されている理由は不明である。「原朱書」の方は「一本」とあるので藩から提出されたものではないのかもしれない。
 明治四年七月、多古藩は廃され、知藩事は免じられて以後東京在住を命じられた。新しい多古県の政務は旧藩の大参事以下に仮に執らせ、諸藩の兵はおのおの一小隊を残して解散させられた。
 こうして、寛永十二年(一六三五)松平勝義が多古に入部して以来二三六年、正徳三年(一七一三)勝以(ゆき)の代に大名に列し多古藩となってから一五八年、長く多古とその周辺を本領としてきた久松松平氏の治政は幕を閉じたのであった。
 多古陣屋は一時、多古県庁に使われるが。同年十一月に実施された府県の統廃合によって多古県は廃されて新治県が設置され、庁舎は明治八年に多古学校創設に当たって、その校舎となった。