検地とは村の総地籍、総石高を測定する土地調査のことであるが、全国を統一した豊臣秀吉の政策の内で最も基礎的な事業が検地であり、天正・文禄両期に全国的に施行されたそれは太閤検地と呼ばれている。
検地は中世以前も検注などの名で行われているが、検地という語が一般的になったのは戦国時代からである。初めは家臣や農民が土地の面積、収穫高、持主を書き領主に提出する「指(さし)出し」の形であったのを領主側で調べる形に改めたのは秀吉であった。秀吉の検地としては天正八年(一五八〇)の姫路の検地、同十年、山崎の合戦直後の山城検地があるが、それらを最初として、検地奉行を各地に派遣し強力にこれを推進した。
太閤検地では検地竿(さお)(間(けん)竿)を六尺三寸竿に統一し、三〇〇歩を一反、三〇歩を一畝(せ)とした。また田畑を上・中・下・下々の四等級に分け、石盛(こくもり)(土地の評価基準)の標準を反当たり上田で一・五石とし、以下二つ下がりに、中田一・三石、下田一・一石、上畑および屋敷地は一・二石、中畑一石、下畑〇・八石とし、下々は適宜と定めた。この石盛を面積に掛け合わせてその土地の石高を算出した。こうしてそれまでのような銭(貫文)で表わす年貢高でなく石高で表わすことになり、石盛は田に限らず畑や屋敷地にも適用されることになった。
検地帳には田畑一筆(一件)ごとに、その等級・面積・分米(石高)および年貢負担者である名請人を明記し、一地一作人の原則の下に零細な農民まで登録した。これによって農民の耕作権を保障するとともに、中世の荘園制の重層的な支配関係を打破し、小農自立をはかっている。それは独立した小農民から直接年貢を取り立てる形の新しい封建制を打ち立てようとしたものであった。
この検地の際に村境を確定し、村切りを行って親村と枝村を切り離した。こうして中世の自然村を行政村に切り替え、村を基本単位とする支配と貢租の体制が作り上げられていったのである。また検地帳に登録された農民は土地にしばりつけられることになり、耕作放棄は処罰され、土地の質入れ・売却や、農民の離村も禁止されるようになったのである。このように太閤検地は近世封建社会の確立に重要な役割を果たすものであった。