ビューア該当ページ

文禄検地

275 ~ 279 / 1069ページ
 天正検地に続く文禄検地については、東松崎の飯田内蔵之助家に天正二十一年(実は前年改元されて文禄二年に当たる。一五九三)二月十七日付の検地帳の一部を明治四十三年に写したものがある。表紙・表題、最後の田畑集計などはなく、田・畑のほか数筆の屋敷地と「茶」「藺田」各一筆が記されている。以下の四筆はその冒頭部分である。
 
        志はふき
  [九間八間] 下々畑壱畝拾五歩  [神左衛門分 縫殿へもん作]
         取四升五合
         同
  [十七間半七間] 下々畑四畝弐歩  [同分 四郎右衛門作]
          取壱斗二升二合
         同
  [十五間二間半] 下々畑壱畝七歩  [同分 同作]
          取三升七合
         同
  [拾壱間十間] 下々畑三畝廿歩  [同分 別当作]
          取壱斗一升

東松崎の天正検地帳(写し)

 一筆ごとに田畑の縦横の長さと取米(分米ともいい石高を表わす)が記載されている点が本三倉の水帳と異なっている。この形式で分米を記さない方法が、江戸時代を通じて徳川幕府の採用した検地帳の標準形式となっている。
 飯田家所蔵の検地帳が、千葉大学文理学部『文化科学紀要』第八輯所収『東総台地農村史の一考察』の「二、近世初期下総における土地所有関係」(川名登氏執筆)の項に取り上げられているので、以下同論文の一部を紹介させていただく。
 同論文の「天正検地」と題した小節で、水帳の記載例としては、前掲の神左衛門分四筆の内の初めの二筆に加え、次の甚左衛門分の二筆の計四筆を載せ、その内容を以下のようにまとめておられる。
 
  [十弐間九間] 下三畝十八歩  [甚左衛門分 主居]
          取三斗六升
  [六間六間] 下壱畝六歩  [同分 二郎屋しき]
          取壱斗二升
 
 等級は上・中・下・下々の四等で、屋敷地にも等級が付けられている。面積は三〇〇歩一反で、石盛は上田十五、中田十二、下田七、下々田七、中畑六、下畑三、下々畑三、屋敷十となっている。名請人の分付記載はほとんど全筆について見られ、屋敷には抱(かかえ)・主抱の記載も見られる。このような形式の検地帳は下総の場合、天正十九年検地以外にはありえないとされ、前記のように「天正検地」の項に入れておられるのであるが、天正二十一年二月という日付は無視されている。
 その内容を見ると、神左衛門および甚左衛門の分付地と主作地・抱地などだけで、この二人に関係のない土地の記載は全く見当たらないので、この古水帳は東松崎の天正十九年検地帳から何らかの必要により、この二人に関する土地の記載のみを抜き書きしたものと考えられている。神左衛門と甚左衛門とはともに主作地・分付地を合わせれば三町から五町歩を所有する有力農民である。このような水帳の性格を前提として、川名氏がその内容を分析されたのが第9表である。
第9表
 神左衛門分甚左衛門分
屋敷屋敷
 
主作107.1112.133.18123.1248.0749.1997.26
当不作0.189.09 9.273.0523.0126.06
永不作    25.102.0427.14
主抱 1.262.033.29   
 1.051.253.00   
四郎右衛門 11.18 11.183.293.097.08
別当 3.20 3.20 4.244.24
四郎兵衛 0.17 0.17 4.204.20
助五郎 10.06 10.0631.023.2734.29
神五郎54.102.061.2558.119.276.1616.13
新二郎 1.06 1.061.201.20
新兵衛3.2534.181.1039.23 47.2847.28
太郎右衛門6.200.21 7.1147.2613.2961.25
与三郎33.04 2.1235.1615.1617.0032.16
清五郎3.10 3.1023.075.1928.26
縫殿へもん1.151.15
平右衛門9.109.10
七郎兵衛9.029.02
源次左衛門15.2615.26
新四郎11.1011.10
中将3.183.18
神衛門5.115.11
太郎左衛門2.002.00
二郎やしき1.061.06
源六郎1.001.00
助右衛門0.0610.1510.21
新衛門28.049.2437.28
藤左衛門7.007.00
六郎右衛門9.189.18
助二郎3.013.01
八郎右衛門6.126.12
主殿助13.1913.19
主斗0.24 0.24
源右衛門24.0024.00
   371.04   506.18
千葉大学文理学部『文化科学紀要』第8輯所収『東総台地農村史の一考察』による。

 そして分付主の神左衛門は「主作地として田畑屋敷合わせて一町二反余、当不作地・抱地などで一反六畝余を持ち、その他に主作地の約二倍に当たる分付地二町三反余を十九人の百姓に分付している。また屋敷も自ら三畝十八歩を名請しているほかに、抱屋敷を含む七筆の分付屋敷地を持っている」とされる。もう一人の甚左衛門も「屋敷地の名請がないことを除けば、ほぼ神左衛門と同じ土地所有形態を持っている。即ち、主作地九反七畝余、当・永不作地五反三畝余、分付地三町五反五畝余、分付百姓は二十人で、この内半数の十人の百姓は神左衛門の分付百姓でもある」とされている。
 一方、分付百姓の側については、「零細な田、あるいは畑を分付されている百姓が多いが、その中には縫殿へもんの如く下々畑をわずか一筆分付されているのみで、おそらく検地帳の全貌が明らかになれば、この他に相当量の主作地を持つ農民ではないかと思われるものもいる。また神五郎の如く田や畑と屋敷を分付されている百姓や、屋敷のみを分付されている百姓などは、分付主に対する従属性が強いと見ることもできる。しかしまた二人以上の分付主に関係している百姓は、それだけ相対的に独立度が高いとも云えようし、そのような者の内には、神左衛門と甚左衛門からの分付地の合計が六反から九反近い農民も幾人か存在する」とされている。
 東松崎の検地帳には分付や抱に関して考えるべき問題が多い。「某分某抱」「某分主抱」などとあるような名請人は香取郡の他の村々にも見えるが、このような存在の究明を通して村落の姿が明らかになるはずである。今後の研究にまちたい。同論文には慶長九年の同村の検地帳なども取り上げられているので、詳しくは前記の掲載誌をご覧いただきたい。
 東松崎の場合、前述の本三倉の場合に比べると分付の多いことが対照的である。分付記載が小農自立の過程を示すものとするならば、本三倉に比べて東松崎は旧名主層の支配が強く残存していたということができよう。
 この検地帳に見られる分付関係は、農民間の土地所有関係や従属関係がかなり錯雑したものであったことを示している。これが後の慶長九年(一六〇四)の検地帳になると分付はほとんど消滅し、村全体で数例見られるだけになっている。
 なお、多古町域の文禄期の検地帳としては『千葉県農地制度史』(昭和二五、後に『房総農業史』と改題再刊)に文禄三年の『下総国香取郡松崎村御縄打水帳』の七筆分が攻められている。小字「山ノ下」「しらたんだ」の出羽分一筆、源右衛分六筆で、分米の記載がないのであるが、史料の説明はない。ほかには、多古村に文禄二年の名寄帳があったことから、この時期には東松崎以外でも検地が行われたものと考えられる。