徳川幕府の検地は開府の翌年、慶長九年(一六〇四)に始まり、元禄検地をもって全国的な総検は終わっている。慶長以後は六尺一分竿を使用するなどの改定はあるが、原則的には天正検地の方法を踏襲している。検地竿は、初め徳川氏は六尺五寸竿を用い、次第に短くしたのであるが、年貢率は同じであったからこうした改定は実質的には年貢の増徴となっており、竿の縮小は年貢増徴をねらいとするものであった。
慶長・元和期(一五九六~一六二四)の検地は新検と呼ばれ、それ以前の天正・文禄期(一五七三~九六)の検地は古検と称して区別された。その後、享保十一年(一七二六)の関東諸国および大和の検地に当たって新たに検地条目三十二条が定められると、それ以前の検地が古検、以後の検地が新検と呼ばれるようになった。それに対応して元禄以前に検地されたものを本田畑といい、元禄~享保の間に開発されたものを古新田、享保以後開発のものを新田と一般に称している。(古検・新検の呼び方には別の年代区分もあり、また藩によって独自の区分のしかたも見られる。)
総検には勘定奉行に任命された検地奉行が当たり、部分的な検地には郡代や代官が当たった。新開地の検地はその部分だけに限って調べるのが普通である。
諸藩でも幕府の方針に従いながら独自に検地を行ったが、関東の諸藩の検地は天正~寛永(一五七三~一六四四)、万治~延宝(一六五八~八一)の二期に多く、特に慶長~寛永(一五九六~一六四四)に集中して実施されている。多古町域では、寛永八年(一六三一)佐倉藩の検地が行われ、牛尾・井野・南借当などの村にその検地帳が残っている。
また旗本の場合、元禄以後に知行地を与えられたときは、前支配者の検地を踏襲するようになり検地をしなくなっているが、寛永のころまでは独自に行っていたようである。初め旗本であった多古の松平氏の場合には、寛文・延宝期(一六六一~八一)と元禄期(一六八八~一七〇四)に検地を行っている。一般に延宝期には新田のみの検地が行われ、正徳期(一七一一~一六)以後は全く新田検地となっているのであるが、松平氏は繰り返し本田の検地も行って年貢の増徴に努めている。松平氏が大名に昇格するのは正徳三年であるが、初めから多古に陣屋を構えていたので一般の旗本とは異なり、検地を綿密に行えたのであろう。
このほかの寺社領は、その寺社の属する地域の領主が検地を行うことになっている。
多古町域の村々で江戸時代に実施された検地の年度は次のとおりである(現存する検地帳・新畑野帳・田帳・山畝歩帳および検地実施年の名寄帳などによる)。〔*印は新田畑、△印は山林)
慶長九年(一六〇四) 東松崎。同十四年、南借当・東松崎。
寛永八年(一六三一) 南借当・牛尾・井野。
寛文三年(一六六三) 大門。同六年、*東佐野・染井・南借当。同十二年、*東松崎。同十三年、千田・南並木。
延宝一年(一六七三) 多古。同二年、東松崎・南並木。同三年、南玉造(柏熊)。同六年、林。同七年、染井。
貞享三年(一六八六) 北中。
元禄二年(一六八九) *染井・千田。同三年、北中・*谷三倉。同五年、染井。同九年、谷三倉。同十年、桧木・高津原。
同十一年、南借当・南中・南並木。同十二年、桧木。
宝永二年(一七〇五) *谷三倉。同五年、*本三倉・谷三倉。
正徳一年(一七一一) 一鍬田。同三年、*多古・高津原。
享保二年(一七一七) 南和田。同六年、桧木。同八年、*次浦。同十三年、△桧木。同十六年、一鍬田・北中(宮)。
寛保一年(一七四一) △次浦。
延享二年(一七四五) 桧木。同三年、*南借当。
寛延一年(一七四八) △林。
宝暦二年(一七五二) 飯笹。同十一年、東台。
明和七年(一七七〇) 島。
安永八年(一七七九) 東松崎。
天明五年(一七八五) 島。
文化十一年(一八一四) *谷三倉。
文政一年(一八一八) 林。
天保十四年(一八四三) 次浦。
弘化二年(一八四五) 飯笹。同三年、*大門。
安政二年(一八五五) 東佐野。同五年、南玉造(*柏熊)。