ビューア該当ページ

三、村高と貢租

285 ~ 290 / 1069ページ
 石高は課税対象である土地の評価を玄米の生産量に換算して表わしたものである。それは米を生産しない畑や屋敷地にも適用されたから、ある土地の米の生産量を表わすものではない。
 石高制は秀吉によって採用され、江戸時代を通じて用いられた。それは年貢収納に対してのみ用いられたのではなく、武士の知行制の基礎として所領高・知行高・俸給額を表わすとともに、それによって軍役(えき)も決められた。それと同じように農民においては土地の保有高を表わすとともに村役(むらやく)・国役(くにやく)などの諸役徴収の基準でもあった。
 石高は前述のように検地の際に決められる田畑屋敷地の等級別の石盛と、面積とを掛け合わせて算出されるが、それを村単位に集計したものが村高である。
 石高は新開田畑の検地を繰り返すことによって改定された。また隠田(おんでん)や縄はずれ地などを摘発するために、知行割替えを行う際に調べ直しされた。しかし元禄以前に検地された本田畑に基づく村高は幕末まで継承された。また大名・旗本が幕府から朱印状によって公認された表高は江戸時代を通じて変わらなかった。そのため田畑の生産力が向上して実際に年貢をかける内高(実高)が江戸時代末期には表高の二倍前後になっている藩がかなり多かった。多古藩松平氏の場合でも、嘉永三年(一八五〇)の陸奥への村替えで内高は二千三百石余の減石になるが、明治初年の内高は表高の一万二千石を越えて一万四千百石余になっていた。また農民に対する年貢徴収も、搾れるだけ搾るというような初期の体制は寛文・延宝(一六六一~八一)のころから後退し、農民は次第に安定した暮しが営めるようになっていった。
 第10表は多古町域四〇カ村の各時期の村高を並列したものである。資料は元禄十五年(一七〇二)に幕命によって国ごとに作成を命じられた『元禄郷帳』、同じく天保五年(一八三四)の『天保郷帳』、弘化二年(一八四五)の『関東取締出役控帳』、明治元年(一八六八)の村高を記した『旧高旧領取調帳』である。なお村高を記載した資料にはこの外に宝暦十一年(一七六一)の『下総国各村級分』(房総叢書所収)があるが、これは谷三倉の高が、一七八石六七になっている外は全く『元禄郷帳』と同一である。
第10表 各村村高表
村名元禄郷帳
元禄15
(1702)
天保郷帳
天保5
(1834)
元禄→天保
増加倍率
弘化2
(1845)
家数明治1
(1868)
備考
 
多古855.71334.7981.5601334.7942201335.772
508.18734.088971.445527.0111728.942
水戸348.126383.563191.102384.152383.561
石成134.763134.7631.0126.015134.763
千田99.8599.851.099.8051099.85
312.04331.32971.062300.046332.202
五反田117.87117.871.0117.8711117.875
東佐野89.17589.1751.080.01189.174
中佐野312.001312.0111.0312.019312.011
東台172.0268.344131.560172.022268.34413
大原226.209226.2091.0226.20913226.209
井野249.633249.6331.0249.63322249.633
染井457.15537.96631.177457.12547538.7712
飯笹450.0496.3421.103447.061486.539
間倉118.9989118.9881.0118.99823118.998
一鍬田111.739147.4471.320106.48917147.197
船越510.7942.2471.845938.0112942.247
牛尾540.5021233.342.2821217.94931,233.34
次浦454.444458.461.009454.464457.629
西古内181.291181.291.0181.2937181.298
御所台124.34159.9461.286157.30418159.91
寺作72.0788.681.23072.0988.684
井戸山256.2023259.7711.014227.040260.684
高津原316.57316.571.0316.5650316.57
大門243.8245.050921.005237.023246.275
桧木76.1676.160321.076.161176.189
出沼236.5998236.61.0197.025237.15『各村級分』では谷三倉は178.67
本三倉298.924343.8841.150294.2451298.91744
谷三倉175.607206.2021.174175.60722206.1
川島98.7299.421.00798.721799.42162
東松崎1,213.1351218.15841.0041,168.56811021,211.51286
383.17383.17651.0383.04439382.66478
方田200.054200.0541.0200.05418200.054
南玉造714.081972.3811.362927.181147972.386
南中537.922832.8691.548812.193134896.1455
北中876.711974.0871.111945.6986962.087
南和田80.11580.1151.080.115980.115
南借当128.215196.2391.531195.3318196.911
南並木138.85258.0971.859285.64260257.917
中村新田118.092122.2022117.168
合計39~40村12,420.61815,663.268431.26114,822.26311,88715,651.21753
1村平均318.477391.58171.230370.556647.2391.2804

 元禄から明治までほとんど村高の不変の村は、石成、千田、林、五反田、東佐野、中佐野、大原、井野、次浦、西古内、井戸山、高津原、大門、桧木、出沼、本三倉、川島、東松崎、坂、方田、南和田などがあり全体の半数を越えている。井野村では寛永八年(一六三一)以降不変であるし、林村では天正十九年(一五九一)の検地から二二石余しか増えていない。こうした例は外にもかなりあるはずで、これらの村が江戸時代を通じて生産力が上がっていなかったわけではない。主に領主側で検地をしなかったためで、生産力の上がった分を貢租として収取できなかったにすぎない。なお多古町域では旗本の知行替えがほとんどなかったので、検地し直す機会のなかったこともその一因に上げられよう。
 一方『元禄郷帳』から『天保郷帳』へと村高が増加した村の順位を上げれば、牛尾村の二・二八二倍が一位で、以下②南並木、③船越、④多古・東台、⑤南中、⑥南借当などが一・五倍を越えている。その中に多古藩領の多いことが目立っている。ちなみに房総全体では一・一四一倍で、一般に下総の増石が目立っている。
 多古藩の表高一万二千石の基礎とする村高は『元禄郷帳』の村高にほぼ等しく、本田の総石高は一二、三七九石余であった。それに対し、このような新田の高は上総・下総領合わせると三、二一二石余もあり、嘉永の村替え当時の内高は表高に対して三六%増となっている。ただし新田の年貢率は本田より低いが、これらの村の古新田の年貢率はかなり高くなっている。
 『天保郷帳』と明治元年の高とでは、合計を見てもわかるとおり大きな変化はない。ただ途中の弘化二年の高では村によってかなり低い数字が出ている。これは村から関東取締出役に差し出したもので、なるべく低く届けているように見受けられる。
 弘化二年調べの家数も参考までに掲出しておいた。谷三倉村は二二軒となっているが、同村の文政五年(一八二二)の『五人組並宗旨御改人別帳』によると、その合計は二六世帯一一〇人となっている。これは家数と世帯の違いとも考えられる。この人別帳の中味を調べ直してみると、実際には一一三人おり、これを弘化の家数で割ると、一軒平均五・一三六人となる。これを仮に多古町域の平均と見て弘化二年の家数総計一、八八七軒に掛けてみると、九、六九二人となる。これと昭和五十九年十月調査の多古町民一七、八三三人(四、二六一世帯)とを比較すると一・八四倍ということになる。
 明治元年、最終的に多古町域四〇カ村の総石高は一万五千石余になるが、支配者分類別の石高と、その全体に占める割合は次のとおりである。
 
  大名領     四、六七〇石七四三、七二  二九・八%(内、多古藩領 二、八二二石一八三、〇〇)(一八・〇%)
  旗本知行地   九、六四三石七七〇、六七  六一・六%
  寺社領・免除地   一一五石三六四、五〇   〇・七五%
  幕府直轄地   一、〇八九石一四七、六四   七・〇%
  江戸町奉行与力給知 一三二石一九一、〇〇   〇・八五%
   合計    一五、六五一石二一七、五三
 
 〔注〕この統計は『旧高旧領取調帳』によった。この調べには「明治四年改増」として本三倉・染井・石成・水戸・千田村に合計〇・〇一八五六石が上げてあるが、除外した。
 
 また村高から多古町域の村々の規模を見るとき、その平均三九二石余の村高は江戸時代中期以降の全国平均村高が四~五百石といわれているので、平均よりやや少ない。したがって第11表のように多くの村が四百石以下に集中している。全国平均では飯笹や次浦が標準の規模であるが、多古町域における平均は、村高の点では三~四百石代の水戸以下の六カ村が、そして村数の順位で中間を求めれば二~三百石代の東台以下の九カ村が標準ということになる。ここでは村高だけを取り上げたのであるが、ちなみに面積と人口の全国平均は江戸時代中後期の一村の耕地では約五〇町歩(幕末で六六町歩)、人口では約四〇〇人といわれている。それを参考にして、地域史編各章を見ていただきたい。
第11表 村高で見る村の規模(『天保郷帳』による)
 
1400以上0
1300~多古1
1200~牛尾,東松崎2
1100~0
1000~0
900~船越,南玉造,北中3
800~南中1
700~1
600~0
500~染井1
400~飯笹,次浦2
300~水戸,林,中佐野,高津原,本三倉,坂6
200~東台,大原,井野,井戸山,大門,出沼,谷三倉,方田,南並木9
100~石成,五反田,間倉,一鍬田 西古内,御所台,南借当,中村新田8
100未満千田,東佐野,寺作,桧木,川島,南和田6