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年貢

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 年貢は生産物地代であるが、年貢率のことを免(めん)と呼ぶ意味は年貢を徴収した残りの作徳米を、農民に免(ゆる)し与えるということで、それが年貢の額となり率の意味になったのである。
 豊臣秀吉は統一的な検地を実施するとともに年貢収取の方法についても統一化を推進し、本租については生産高に対して二公一民の割合とした。また荘園制の下で複雑な取り方をしていた付加税を口米(くちまい)に統一し、一石について二升と定めた。そして年貢の収納に当たっては、強大な権力を背景に荘園領主などよりはるかに強硬な態度で農民に臨み、農民の減免要求を曲事(くせごと)と称して、それを要求することさえ認めなかった。ただし、そうした方式が画一的に全国で行われたわけではなかった。
 この時期の徳川領の旗本知行地では高津原村の神保氏の場合、天正十九年(一五九一)の年貢率は五四%であった。江戸時代を通じて多古町域では高い方であるが、それでも秀吉の決めた二公一民の六七%には一三%の差がある。
 これに対して江戸時代の本年貢の割合は、だいたい五公五民ないし四公六民となっている。
 江戸時代には、田畑に掛けられる基本的な正租である本年貢(本途物成(ほんとものなり))と、田畑以外に掛けられる雑租とがあった。雑租は、山林・原野・河海利用に掛けられる小(こ)物成や各種の冥加(みょうが)、夫役(ぶやく)、国役(くにやく)(臨時に特定の国に割り付ける)などである。
 国役というのは幕府の特別な事業や催しについての費用を課するものであるが、『五十嵐家日記』を見ても「川々御普請国役」などと河川改修費がしばしば掛けられている。また夫役には「交通」の項で述べるような街道の助郷、野馬・鷹場関係あるいは多古藩の鹿狩りの際の夫役や、道路・橋普請のなどがあった。
 本年貢は検地によって決められた村高に対して免と称する年貢率を乗じて算定し(これを免付けという)、年貢割付状によって村ごとに通知した。これを村役人が各農民の持ち高に応じて取り立て領主に納める。数度に分割して納め、そのつど仮の小手形が領主から出され、完納すると年貢皆済目録が出された。
 免は一般に四つから五つ(四〇~五〇%)であるが、領主により、また年によって異なり、天領と藩領などでも異なっていた。洪水などがあれば荒地化した分を引き、新田畑の増加分を加え、その年の豊凶によって加減した。毎年のとれ具合を実際に調べて課税する方法を検見取(けみとり)と呼ぶが、村役人や検見役人が一筆ごとに坪(つぼ)刈りして調査するのは手数がかかるので、享保(一七一六~三六)ごろからは過去何年間かの収穫を平均して、次の何年かの率を決める定(じょう)免の法が長期的には支配者にとって有利であるとして多くなっている。
 畑租は田租に比べて低いが、米・大豆・胡麻などかまたは貨幣で代納することも多く行われた。租米には口米その他の種々の付加税が掛けられることも多い。牛尾村の例では屋根を葺く芦の芦場年貢を米で納めている。こうした年貢の掛け方の実際については、地域史編の各章、ことに東佐野の章には詳しい表があるので参照されたい。
 また、年貢率も前述のように一定でないので、多古町域の村々の実態は地域史編の各章ごとに見ていただきたい。同一の村の内でも支配者が異なれば、川島村のように中島氏は三八%、中根氏は四八%というような大差があり、桧木村の正徳二年(一七一二)のように六〇%以上という高率の場合もある。また田畑の位付け、肥沃さによっても異なる。次の表は多古藩の文政八年(一八二五)の資料による各村の年貢率である。
 
  村      本田    古新田     新田     辰新田
  多古     五五%   四〇%     三〇%
  水戸     四一            三一
  井野     三七
  船越     四八    四〇      三五      二四%
  牛尾     五一    四二      三八      二五
  南玉造    四五        [柏熊新田]二八  [坂並新田]二〇
  南中     四八    四二      三六
  北中     四八            二七  [大鯉新田]二〇
  南借当    四二    三八      三一
  南並木    五〇            三四
 
 また支配者による差も大きく、北中村では寛永十二年に多古に入った松平氏が地頭になるのであるが、寛永十、十一、十二年(一六三三~五)には三一・二%、三四・三%、二九・二%であった。松平氏が入部した年は前の代官支配の時より低くなっているが、その後は元禄十五年(一七〇二)四六%、延享二年(一七四五)四八%、天保五年(一八三四)四八%と前に比べるとだいぶ高くなっている。次いで稲葉藩になってからは、嘉永七年(一八五四)三九%、安政二年(一八五五)四六・三%、同六年三九%、文久元年(一八六一)四六・三%とやや下がっているようである。
 天領の場合は大名領に比べて年貢が軽かったのであるが、その上、代官は交替制で転任が多かったので、官僚的で事なかれ的な傾向に陥ることが多かったから、検地や産業に対する統制も弱かったようである。旗本の場合も江戸に住んで知行地との関係が薄く、江戸時代中期からは自ら検地をしなかったから新田の年貢は見逃がされるのが普通ともなっていた。また年貢を算定する根拠である表高また内高は実際の生産高より低い場合が多かったので、天領や旗本知行地の多い多古町域の村々には富農が少なくなかった。その中からは蹴鞠(けまり)のような貴族的な遊戯を楽しむ階層さえ生まれたのである。
 それらの層は使用人による大農経営を行うとともに質地などによって土地を増やして大地主となり、小作料として得た作徳米で酒造業を営んで資産を蓄積した。多古藩の割元名主であった五十嵐家もその例であるが、『五十嵐家日記』には、小作人の下作米引下げ交渉を拒否する記事が寛政五年(一七九三)の項にしばしば見え、天明八年(一七八八)九月には小作人の一揆・打壊しが起こっている。
 年貢率は持ち高に掛けられるので、現代のような累進課税と異なり零細な者ほど負担が重く、高持ちの百姓でも上下に階層が分化する傾向にあった。嘉永二年七月二十五日と表紙にある北中村『役日記』によれば、
 
 当村方(むらかた)之義休百姓持多く有之候に付、去天保十亥年御見分被成下潰百姓三十九軒屋敷御年貢三拾俵御引石被成下置(後略)
(北中区有文書)

とあって潰れ百姓の多いことと、もともと休み百姓の多かったことが知られる。次項「村落構造の変動」で取り上げる谷三倉村の場合に比べるとそれが異常に多いのである。
 多古藩ではそうした農民の没落傾向の対策として精農による「勧農方」を村高千石に七人あて任命し、月々村内の田畑を見回って不精の者は村役人に届けさせる方法をとったり、新規百姓に農具料金を下付したり、窮民には救済金を無利子で貸し付けたり、夫食(ふじき)米を次の収穫まで貸し与えたりしているが、根本的な矛盾の解決策ではなかった。