ビューア該当ページ

一、銚子・江戸往還

300 ~ 304 / 1069ページ
 近世初頭、多古から下総東北部へ向かう、後の銚子道と、多古から西部へ向かう江戸道とはすでに街道として開かれていたらしく、街道筋の宿場の継立(つぎた)ての制度もある程度は成立していたことが次の文書によって知られる。
 文禄四年(一五九五)六月、徳川氏の代官頭が香取郡の森山(小見川町)から江戸まで、徳川家へ献上する柑子(こうじ)(みかん)を運ぶ人馬の調達を各宿場に通達している。
 
 下総森山より柑子江戸へ届申御用に候。人足壱人入る時も可之候。又弐人入り候時も可之候。多くおくり候時者、御伝馬壱疋(いっぴき)無相違出(いだ)者也。
   未六月四日                                      伊  熊
                                              大 十兵
 森山 おかいい田 府馬 鏑木 大寺                            長 七左
 たこ さくら うす井 大わた ふなはし                          彦 小刑
 やわた 市川 かさい あさくさ                              嶋 次兵
 
 〔注〕岡飯田(小見川町)、府馬(山田町)、鏑木(干潟町)、大寺(八日市場市)、大和田(八千代市)、八幡(市川市)、葛西(東京都江戸川区)、浅草(同台東区)。
 
 この伝馬手形の発行者は、代官頭伊奈熊蔵(忠次)、大久保十兵衛(長安)、長谷川七左衛門(長綱)、彦坂小刑部(元正)、嶋田次兵衛(忠次)らである。これは江戸幕府成立以前のもので、したがって幕府の伝馬制度成立以前であるから、後の道中奉行の管掌するところを代官頭がつかさどっていたわけである。
 これら代官頭は関東領国の検地や、蔵入地の年貢の収納も管掌していたが、特に伊奈氏は河川の修治など土木工事を管掌していたほか、関東の往還の整備・管理にも当たっていた。文禄二年(一五九三)奥州・水戸・佐倉道筋に当たる千住大橋の架橋は伊奈氏によって施工され、慶長二年(一五九七)には千住宿は人馬継立て場に指定されている。すでに家康入国の天正十八年(一五九〇)には、中仙道筋の武州大宮村(埼玉県)の百姓四二軒が、伊奈氏の命によってやはり継立ての役を請け負わされている。
 このように見てくると、多古宿の人馬継立て場の指定や、銚子・江戸往還の整備・管理も伊奈氏の担当するところであったかもしれない。
 この柑子は森山の谷本家から家康に献納されたのが恒例となり、後には毎年正月十五日と三月三日と決まっていた。同じ御用を扱った次の手形は七年後の慶長七年(一六〇二)の三月三日付になっており、関東総奉行青山常陸介(忠成)、内藤修理亮(清成)、代官頭伊奈備前守(忠次)、長谷川七左衛門の連署黒印で出されている。
 
 人足壱人、下総上(おか)飯田之郷より江戸まで、何時も此手形次第、郷送りに可相届候。是は御くゎし(菓子)のかうじ(柑子)、届上申す御用也。仍如件。
 
 道筋は府馬で後の銚子・江戸往還に入った形であるが、当時は小見川方面へ向かっての街道であったものと思われる。慶長の手形の宛先は上飯田から、前と同じ道筋の宿を江戸小伝馬町まで掲げてあり、「右之宿中」宛てになっているので、宿継ぎの制度が上飯田から各宿に施行されていたことがわかる。江戸小伝馬町を中心に諸街道および伝馬仲継ぎ地としての宿場が本格的に整備されるのは関ケ原合戦以後のことで、慶長六年一月に、東海道の宿々に出された前記伊奈備前守、彦坂小刑部、大久保十兵衛の署名による「伝馬定書」によってまず東海道に伝馬制度が敷かれている。指定された宿駅は一日に駅馬三六疋を出し、頭数に応じて地子(じし)免(宅地税の免除)があり、一駄の荷は三〇貫目までとされている。中仙道や奥州道は慶長七年に同様の制度が敷かれたようである。
 この当時、諸街道の伝馬証文は関東総奉行と代官頭らによって発行され、その他宿駅関係の争論の裁判も彼らが行っていた。これらの役職が慶長末年に消滅すると、道中関係の政策は後の老中に当たる年寄衆によって執行され、寛永九年(一六三二)からは大目付兼任の道中奉行に引き継がれている。このように宿駅制度は徳川幕府にとって基本的な政策であった。その基礎を築いたのが伊奈忠次を中心とした関東代官頭や関東総奉行であったわけで、その事業が徳川氏の関東入国の時に始められたことを前掲の文禄の手形によって見ることができる。
 銚子・江戸往還が当時どの程度の交通量を持っていたのかわからないが、宿駅として指定されていたとすれば公用の通行もある程度あったのであろう。柑子の郷送りのために特別に仕立てられたわけではなく、むしろ佐倉方面と九十九里方面との物資の移動流通を含め、利根川水運が開ける前の東西下総の交通に大きな役割を果たしていたものと思われる。
 この道が徳川家康の領国経営の一環として整備されたにしても、街道と宿駅はすでに戦国時代には開設されていたのではないかという考えは、先に中世の「多古の起こり」の項で述べたとおりである。嘉永三年(一八五〇)の『北中村明細書上帳』には「銚子より江戸往来」とこの道を呼んでいるのに基づいて、本書では「銚子・江戸往還」と呼ぶことにした。
 清宮秀堅著『下総国旧事考』の駅逓の項にはその道程について次のように記されている。
 
 江府日本橋、抵(いたる)武蔵ノ千住二里。東折抵新井宿一里十九町。新井宿、経小岩関下総市川一里半。市川、抵八幡廿八町。八幡、抵舟橋一里半。舟橋、抵大和田三里九町。大和田、抵臼井二里八町。臼井、抵佐倉城二里。
佐倉城、抵酒酒井一里。酒酒井、抵上総ノ加茂四里。加茂、抵下総ノ多古陣屋一里八町。
多古陣屋、抵松山二里半。松山、抵八日市場一里。八日市場、抵太田三里。太田、抵野尻三里。野尻、抵銚子台場三里。
 
 同書には付録に「下総輿地図」(本書見返し参照)があるが、これにはこの街道の内、多古以西の道筋が省かれている。
 前掲の文禄、慶長の手形は多古の次の宿を佐倉と記しているが、後には武射郡加茂村にも宿駅ができている。この駅については、多古藩陸奥領からの通行・輸送経路を示す次のような文書がある。嘉永三年(一八五〇)の『木戸より土浦通加茂迄の先触(さきぶれ)』(福島県楢葉町上小塙、早川信夫氏蔵)である。
 
    覚
 一、軽尻馬 壱疋
 右者大蔵少輔家来早川栄右衛門未正月三日未明、陸奥国楢葉郡上郡山陣屋を出立、下総多古陣屋迄罷越し候条、依之書面之通宿々無遅滞継立可仰付候。以上。
    辰十二月廿七日                                       多古藩
  木戸 岩城(いわき)平 水戸 土浦 竜ケ崎 寺台 加茂
   右宿駅問屋中
    追書、此先触加茂駅問屋より多古問屋江相達夫(それ)より陣屋へ早々差出可申候。
 
 木戸は、多古藩陸奥領の上浅見川・前原・井出・上小塙村を含む木戸方一一カ村の地域である。竜ガ崎から寺台(成田市)を通って加茂へ出ている。多古藩の役所のあった上郡山との往復は通常この道を通ったものと思われる。ただし陸奥領からの年貢の廻米は海路を運んでいる。多古藩主の参勤交替や藩士の江戸との往復は銚子・江戸往還を通ったが、時には神崎の源田河岸へ出て水路を行く場合もあったようである。また多古町域から江戸への多古藩の廻米は、佐原から津出しされており、佐原の永沢治郎右衛門家がその運送を扱っていた。