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四、飯土井橋と栗山川舟運

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 栗山川とその流域の沼沢地は古来多古町域を二つに割り、東西の交流を大きく妨げてきた。それを結びつけたのが飯土井橋を通る銚子・江戸往還の開通であった。多古藩にとっても本領を川東、川西に二分されていたから当然であるが、下総の東西交通上からもこの橋は重要な意味を持っていた。飯土井橋がいつごろ架橋されたのかは明らかでないが、鎌倉時代、栗山川を見下す飯土井城を築いた千田胤貞のころは、所領の原郷へ渡るのに、この一帯の沼川の間を舟で往来したのであろうか。あるいはすでに沼の間を細い道が通っていて簡単な板橋が架けられていたのかもしれない。しかし本格的な架橋は、室町時代、江戸からの佐倉道が開かれ、さらにそれが延長されて小見川または銚子に通じ太平洋岸一帯と結ぶ道が開通したときではないかと考えられる。初期の飯土井橋は簡単なものであったろうが、むしろ橋に至るまでの低湿地の埋立て工事の方が大事業であったと想像される。おそらくそうした工事は千葉氏あるいは小田原北条氏や徳川氏の領国経営の一環として行われ、次第に整備されてきたものであろう。

栗山川と木造の飯土井橋(昭和初年)

 この橋を渡る街道は明治以後は県道になったが、当時の木造橋は長さ一七間(三一メートル)幅三間(五・五メートル)であった。長さは大体それと同じと考えられるが、江戸時代の飯土井橋は享保三年の橋普請では松厚板により幅一間(一・八メートル)のものであった(本書見返しの「田(多)子飯出(土井)橋」の図参照)。両岸には石垣を築き、高根から高田までは松並木が植えられた。このあたりは元は沼地で大雨のたびに浸水したから道路保全のために松を植えたのである。また橋の維持のため橋番を置いて見回りと掃除をさせていた。
 宝暦十三年(一七六三)の五十嵐家文書(年貢滞納一件)によれば、この橋は以前は二四〇ないし二五〇カ村の助力で普請してきたが、享保三年の普請の際、人足が滞る問題が起き、領主から橋料として米百俵を下付され、それを多古村内ヘ一割の利子で貸し付けておき、利子を普請代に当てるようになった。この橋料米の運営が不明朗ということで、年貢滞納事件とからんで裁判沙汰となったのである。
 また橋の架け替え費用に当てるため、一時期通行に際し橋銭を取っていたらしいことが次の文書によって知られる。これは嘉永元年(一八四八)に行われた掛け替え工事の費用三〇両の精算に際して、上納した橋銭の下げ渡しを藩に願い出たものである。
 
 乍恐以書付願上候。去る文政九年郡奉行小川五郎次様の代、御仕法相立ち、当所旅人宿相定め宿役と致し、旅人一人より一文づゝ取上げ御上納仕り候処相違無御座候。右は飯土井橋掛替の節手伝に致すべき御趣意に付き、文政九年より嘉永三年まで御上納仕り候分残ず御下げ置れ候様偏(ひとへ)に願上げ候、以上。
 
 栗山川の舟運は宝暦二年(一七五二)ころ、幕府の許可を得て開かれたといわれている。むろん私的には以前から使われていたであろうし、『五十嵐家日記』にも日常的には河口まで人を運んだり、飯土井から新井までの往復に川舟を使っていた記事が載っている。この舟運が営業の鑑札を取得し運上金を公儀に納めて開かれるようになったのであるが、航路は岩部の麻黄橋から河口までで、流域の新井、飯土井、玉造川岸堤、田之倉などには積荷場があり、物資の流通には廻船問屋が当たっていた。嘉永七年(一八五四)の『五十嵐家日記』に、仲町の又右衛門が飯土井荷物問屋の鑑札書替えにつき四男にそれを譲って農業一派になりたいと願い出た記事がある。
 五十嵐家では米や酒を舟で運んでいたようで、同日記には「飯土井、米揚げる」とか、酒積船の記事も載っている。一般にこの川では、上流からは主に米麦や薪炭を、下流の九十九里地方からは帰り荷として塩や肥料とする干鰯(ほしか)などの海産物を運んでいた。また臨時に舟運を特定目的に使いたいときは日限つきの川船通船願を出す必要があったらしく、そのような記事も見える(舟運およびそれに関する訴訟、川刈りについては地域史編牛尾参照)。
 なお、牛尾の字引船(ひきふね)からの新井の渡しは江戸時代の末ごろから始まったといわれ、昭和二年五月に橋が架けられるまで続けられていた。