文政十年(一八二七)以降、天保十四年(一八四三)にかけて関東取締出役によって農間商(あきない)渡世の調査が行われた。これは当時、商業が村々に浸透して、それが農業を衰退させていると幕府が考えたために、村の商業を制限しようとする意図をもって行われた政策的な調査であった。そのために事実が必ずしも正確に反映していない傾向があったようである。
この当時一般に大都市近くの村では全村民の二~三割程度またはそれ以上の兼業農家があったといわれている。大都市から遠い多古町域ではそれほど多くはないが、次に上げる島村の例では家数一二〇軒に対し、商渡世一六軒(一三・三%)となっているし、後に上げる東佐野村の例では一二軒に二軒となっている。なお、この時は商業だけが対象であり、大工などの職人は入っていない。
一般に関東取締出役の調べは、石高や家数についての調べでも村方では少な目に答えている傾向があり、この商の調べも厳密なものでなく、実際にはもっと高い数字になるものと思われる。質問の形が、数多くの業種について、一種ずつ「御座無候哉」と質問しているので、村方ではそれぞれ適当に「御座無候」と答えることが多かったといわれている。
島村から文政十二年(一八二九)に関東取締出役へ出された『農間商(あきない)渡世之者名前取調書』(地域史編島所収)によれば、村高五二七石、家数一二〇軒の村の中に農間商渡世の家が第15表のように一六軒存在した。一二〇軒〔弘化二年(一八四五)には一一一軒〕の家が〝島〟のように集中していれば営業しやすい点もあるが、この村は屋根茅や薪を他村から買っているので、その分を他村への卸や行商で補う必要があったと思われる。卸商のうち薬卸商はむしろ町域外を対象としているが、製造販売の中にも他村を売り先とする者がある。このような島村の傾向は後掲他村の場合に比べて、業種の多いこととともに注目される。
第15表 島村商業の業種分類 | |||||
卸 薬卸商 | 1 | ||||
菓子・飴卸商 | 2 | ||||
製造販売 干うどん商 | 2 | ||||
こんにゃく商 | 1 | ||||
豆腐油揚商 | 1 | ||||
小売 飴売 | 1 | ||||
綿木綿小間物商 | 2 | ||||
荒物商 | 1 | ||||
ぼでい商(行商) | 5 | ||||
合計 | 16 |
関東取締出役の調べは武蔵・下総両国について実施されたのであるが、両国において、創業の古いのは居酒屋で、寛政年間が多い。島村には居酒屋、髪結、質屋はないと書かれているが、もしそれが事実であったとすれば、百軒余もまとまっていた島村の一つの特徴ともいえる。なお東佐野区有文書によれば、後の天保十四年(一八四三)に関東取締出役より湯屋・髪結床・酒倉・小間物商・刀研拵(とぎこしらえ)屋などの商渡世禁止の沙汰が出されている。
島村に卸商が三軒もあったのは、早い時期に創業された膏薬卸商の成功が刺激となったのではなかろうか。それがまたこの村の商業全体を活発にしたのではないかと考えられる。この金瘡膏卸の販路は関東南半の諸国や越後、東海道は美濃までの一一カ国にもわたっていた(地域史編島参照)。同じように江戸時代から家伝の薬を広く販売していたものに中佐野村の保童丸がある。これの販路は定かではないが、少なくとも下総・上総・常陸に及んでいたことは確かとされている(地域史編中佐野参照)。ただ両者とも大福帳などが残っていないので、当時の営業状況は明らかでない。ちなみに富山の薬売りは享保年間(一七一六~三五)にはすでに相当数が他国へ出ていたようである。
第16表 島村商業の創業年度(島区有文書による) | |||
年代 | 創業年 | 業種 | 軒数 |
1770 | 安永7 (1778) | 金瘡膏卸商 | 1 |
1780 | 0 | ||
1790 | 寛政7 | ぼでい商 | 2 |
(1795) | 綿木綿小間物商 | 1 | |
寛政10 (1798) | 豆腐油揚商 | 1 | |
1800 | 享和2 (1802) | 綿木綿小間物商 | 1 |
享和3 (1803) | 菓子卸商 | 1 | |
飴卸商 | 1 | ||
飴売 | 1 | ||
干うどん商 | 1 | ||
文化5 (1808) | 荒物商 | 1 | |
1810 | 文化10 (1813) | こんにゃく商 | 1 |
文化11 (1814) | ぼでい商 | 1 | |
文政2 (1819) | ぼでい商 | 2 | |
1820 | 0 | ||
1830 | 文政13 (1830) | 干うどん商 | 1 |
合計 | 16 |
製造販売の干うどんは『五十嵐家日記』にも、病気見舞その他の贈答に当時、頻繁に使われている記事があり、相当広範囲に需要があったものと思われる。ぼでい商(あきない)は背負い籠に雑貨を入れて訪問販売した行商人である。天保十三年(一八四二)の東佐野村には、家数一二軒のうちに農間の天秤(てんびん)商が一軒、菓子卸商が一軒存在した(地域史編東佐野参照)。天秤商の扱った商品は海産物か日常雑貨であろうか。小さい村であるから当然ではあるが、卸と行商という外向性が興味を引く。
明治六年の島村の『土地産物書上(かきあげ)』によると、米以外の産物としては、自用消費の麦・小豆・菜種・粟などがあり、酒一八五石、醤油一五石、絞油三〇石、それに農馬三〇疋、鶏四〇〇羽と記されている。酒や油・鶏卵など現金収入を得るために相当量が仲買商人に売られたのではないかと思われる。水戸村・千田村などの村明細帳の市場の項に「八日市場江三里御座候」とあるように、この一帯は八日市場の商業圏にあり、日用雑貨の買出しもそこへ行くとともに、産物の出荷も主に八日市場へ向けてなされたと考えられる。島村の文政の調べには造酒が届けられていないが、実際にはそれより前から造られていたものと思われる。
島村の調べには職人が入っていないが、村々の職人の数はどのくらいであったろうか。慶応二、三年(一八六六、七)の北中村の農間職人は、製造販売も含めて第17表のとおりである。両年の世帯数は五人組帳によれば一〇五と一〇六である。明治に向かって職人が急増していくのが注目される。
第17表 慶応年間の北中村の職人 (『北中村御用留』による) | ||
慶応2 (8月) | 慶応3 (11月) | |
左官 | 1 | 1 |
桶工 | 2 | 3 |
綿打 | 2 | 2 |
篭屋 | 1 | |
髪結 | 1 | |
大工 | 2 | 5 |
木挽 | 4 | 3 |
合計 | 11 | 16 |
中村には文化・文政期に文蔵・佐与吉(儀兵衛)という有名な宮大工の師弟がおり、日本寺を建築している。文蔵は多古村新町の祇園祭の山車(だし)も造っている。彼らは土地柄の伝統が生んだ名工であったのだろうか。
農間渡世とはいっても北中村の場合、零細農民の中に休み百姓が多く、天保十二年(一八四一)には高五石以下の九二名のうち三五名が休み百姓であり、弘化二年(一八四五)には同じく九三名中三六名が休み百姓であって、その後もこの数はあまり減っていない。こうした人々の相当部分は商人や職人に専業化し、そこに社会的分業が進行していたものと考えられる。
幕府は天保十二~十四年(一八四一~四三)の改革の基本政策として物価の抑制をはかったが、その一環として職人の賃金抑制を行っている。地域史編東佐野の章に天保十三年の『御趣意ニ付諸色直(値)下げ控帳』が載せてあるので参照されたい。商の場合は商人の数が増えることを幕府は恐れて抑制しようとしたのであるが、職人の方は、その数よりも賃金の高騰が人件費として直接財政にひびくので、物価とともにその賃金を抑えようとしたのである。
北中村の職人の例に近いのは次浦村の場合で、明治五年(一八七二)に新政府へ差し出した書上の控によれば第18表のとおりである。家数は七二軒で、その割合も北中とほぼ等しい。同じ調べの大門村の場合は第19表のとおりで、家数は明治九年の調べで二八戸であり、明治三年には二五戸であったから、この年は二六戸ぐらいであろう。いずれも農間である。醸造と質屋が特色となっている。この特色をさらに拡大した感じのあるのが第20表の東松崎村である。
第18表 明治5年次浦村の商工業 (『村差出書』工商書上) | |
大工 | 4 |
木挽 | 2 |
下駄職 | 1 |
綿打職 | 1 |
鍛冶職 | 1 |
屋根屋 | 1 |
酒小売 | 2 |
菓子小売 | 2 |
合計 | 14 |
第19表 明治5年大門村の商工業 (『工商取調書』) | |
質 | 1 |
酒造 | 1 |
醤油造 | 1 |
酒小売 | 1 |
小間物商 | 1 |
工 | 1 |
合計 | 6 |
第20表 明治5年東松崎村の商業 (『村差出書』) | |||||
酒造 | 1 | ||||
醤油造 | 2 | ||||
濁酒造 | 1 | ||||
絞油 | 1 | ||||
穀商 | 1 | ||||
質屋 | 4 | ||||
合計 | 10 |
この東松崎村の調べは行商など小商人が入っておらず全業種を取り上げたものではないらしいのであるが、独得の地域性を示している。ここは松崎神社の鳥居前町として茶店などがあり、祭礼時はことににぎわうのであるが、この調べでは醸造業と質屋の多いのが目立っている。両者とも多額の資本を必要とするため一般に大地主などの資産家が営んだものであるが、前述の村々の調べにそれらが全く見られないのは必ずしも存在しなかったというのではないようである。
東松崎村の質屋四軒は戸数一二〇戸に対してかなり多く、それらがどの時期に開業したものかわからないが、この村の鳥居前町としての特殊性を表わしているように考えられる。貨幣経済が入りやすく、また景気に左右されやすい職業・階層の人々が少なくなかったと思われる。ちなみに不動尊の門前町である成田村では、文政十年(一八二七)の調べで、一四一軒の内一〇〇軒が農間商渡世を営み、その内質屋は四軒で、安政二年(一八五五)にはそれが十一軒に増えている。
野田泉光院(一七五六~一八三五)という日向国の修験者が全国を托鉢して回った紀行『日本九峯修業日記』に東松崎のことが記されている。文化十四年(一八一七)二月のことで、「十七日。半天。山倉立、辰之刻。松崎稲荷とて坂東惣社あり詣で納経す。花表〔注、鳥居〕前、茶屋二軒、村々少々、夫(それ)より下総法華檀林へ詣で納経。判望み候へば千カ寺計(ばか)りに出すとて出でず。本堂十間四面村も大分あり。夫より大浦と云ふ村へ出で医師次平と云ふ宅へ宿す。朝暮馳走あり、此人少々文見あり話し合へり」とある。この紀行は正確簡潔に民俗世態を記録していることで民俗学者から評価されている書であるが、これによれば松崎神社の鳥居前には当時茶屋が二軒あり、他には店はなかったらしく、そのあたりの家数も、次に詣でる飯高檀林のあたりに比べ少なかった印象である。
第21表は、以上の村々における農間余業の家数に対する比率を示したもので、東松崎村の調べは小売商や職人が入っていないので除外した。限られた資料による一例にすぎないので、これによって当町域全体の状況をつかむことはできないが、年々余業率は高まっており、階層分化の進行に対応するものと見ることができよう。
第21表 農間余業率 | ||||||
村名 | 村高 (天保郷帳) | 軒数(A) | 商人 職人 | (C) | C/A | 年度 |
% | ||||||
島 | 734 | 120 | 16 | 13.3 | 文政12 (1829) | |
東佐野 | 89 | 12 | 2 | 16.7 | 天保13 (1842) | |
北中 | 974 | 105 | 11 | 10.5 | 慶応2 (1866) | |
106 | 16 | 15.1 | 慶応3 (1867) | |||
次浦 | 458 | 72 | 14 | 19.4 | 明治5 (1872) | |
大門 | 245 | 26 | 6 | 23.1 | 〃 | |
合計 | 441 | 65 | 14.7 |
以上の村々の在郷商人に対して、多古村の場合は宿場町であると同時に、小藩とはいえ城下町でもあったから在町商人ともいえる性格も持っていたようである。その商工業は他村同様に農間渡世を称してはいるか、農業は使用人に任せ主人は商工業に恵念することは大百姓になればなるほど多かったように思われる。
近世初めの文禄二年(一五九三)の多古村の名寄帳には大百姓五七名と小百姓四三名が載っているが、そのうち二六〇年後の安政期(一八五四~六〇)までに没落してその子孫が不明となったものが、大百姓で一四名(二四・六%)、小百姓で三〇名(七〇%)であった(三〇九ページ多古村家数変化表とその説明参照)。大百姓とはいっても持ち反が二反以上の者で、その平均は六反六畝余にすぎない。工商渡世によって零細な農民も大百姓となることができたと考えられる。そして小百姓に比べ三倍近い割合で二百数十年後まで残ることができたのである。
『五十嵐家日記』に見える多古村民の職業としては、五十嵐氏自身の酒造のほか、陣屋出入りの大工・木挽き・畳方、町方としては旅籠屋・湯屋・荷物問屋(飯土井)・髪結い・綿打ち・屋根屋・鍛冶屋・医師などである。宿場としては他に茶屋・飯屋・居酒屋は当然あったに違いない。なお多古藩の神代徳次郎逃去事件で無実の嫌疑をかけられた小左衛門のような農間飛脚稼のような者も、宿場町および城下町として江戸、佐原その他への通信の仕事が多かったために存在したものといえよう。
町域外から多古村へ商売に来た商人、『五十嵐家日記』の表現によれば「入谷商人」は、飯土井橋掛替え費用や毎年の村勘定に冥加金として相当の金額を負担しているので、かなりの商品の売買があったものと見られる。
〔注〕「入谷」は入会いのことか。多古村の商業地に入会って収益を得る意かと思われる。
五十嵐家は大地主であり、酒造家でもあったので、寛政五年(一七九三)の日記には、江戸の商人が「地廻り酒荷物請度(うけたき)由にて参り候事」(十月五日)とか、「酒之儀積船に掛合ひ治右衛門笹川江飛脚にて荷都合申し遣(つかは)し候事」(同年八月十三日)、「酒廿駄江戸江積み候事」(八月十五日)〔注、酒一駄は三斗五升入り二樽のこと〕「江戸十九日出、鴻池(こうのいけ)儀兵衛殿より書状来る、酒かわり出候よし、尤(もっとも)上酒七八両五六両四五両と申し来候事、引合ひ申す間敷由と申し参り候八駄遣し候、大損ものに御座候」(十月廿四日)のような記事が見られる。地廻り酒とは江戸へ回送する酒のことで佐原のそれは有名であった。
また同日記には江戸および佐原の米相場が記されており、「書状来る、江戸田子米九斗六七升、もち八斗三四升、ぜに五貫八百文也、佐原田子米九斗壱弐升」(寛政五年十月十九日)、「一米相庭(場)田子米江戸共ニ九斗九合札、一佐原田子米廿三日札八斗九升八合、一蔵米九斗、生子米九斗三升、右之通り申来り候」(同年十月二十四日)とか、江戸へ「仙台、南部、岩城共四十叟(そう)計(ばかり)入舟之由、米十三万計に及び候よし」(同年六月二十日)というような記事が、特にこの年は多く見出される。五十嵐家の商用だけでも飛脚の用は相当多かったようであるが、同家では使用人による耕作のほか地主として収納した米の蔵出しを相場に応じて操作していたのだろう。しかし前掲のように、鴻池のような江戸・大坂の大商人には時に痛い目に合わされていたようである。
交易として忘れてならないのは交通の項に記したような栗山川舟運による九十九里漁業地帯への米麦・薪炭の供給と、見返りとしての海産物の移入である。この交易を扱ったのは流域各地の船問屋、荷物問屋であった。後述「多古町旧道図について」に掲げた大正期の路線の中に見える「栗山川荷物積卸場道」の存在によっても往時の舟運の盛況がしのばれるのであるが、この交易が両地方の産業の興隆に果たした役割も大きかったものと考えられる。