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【付】「多古町旧道図」について

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 多古町域より四方へ向かう道路は文字通り四通八達しているが、大正十年発行の『香取郡誌』が取り上げている県道・枢要里道の多古関係一八路線は江戸時代またはそれ以前に開かれたものがほとんどであり、また基本になっていると考えられる。
 本書下巻付録の「多古町旧道図」は、明治十六年測量、同二十二年発行の『迅速図』(第一師管地方迅速測図)所載の道路および河川を細大もらさず(畦道を除く)昭和五十九年発行の『千葉県多古町全図』の上に色彩で復元したものである。
 そこで、「旧道図」の路線を調べる上の参考に、『香取郡誌』が取り上げている路線から多古関係の路線を次に引用しておく(町村名は大正当時のままとした)。
 
【県道】
 佐原―八日市場間(佐原―香西―栗源―久賀―多古―中村―吉田―八日市場)
 多古―成田間(多古―千代田―成田)
  (多古―多古停車場間、省略)
【枢要里道】
 下小野―北中間(香取町下小野―栗源―常磐―中村北中)
 多古―柴山間(多古―水戸―二川村柴山)
 小見―南中間(八都村小見―山倉―常磐―中村南中)
 大寺―北中間(豊和村大寺―飯高―中村北中)
 多古―宮川間(多古―東陽村宮川)
 南玉造―松山間(南玉造―飯高―匝瑳村松山)
 所―多古間(大須賀村所―久賀―多古)
 十余三―一鍬田間
 久賀―飯笹間
 米倉―高谷間(八日市場町米倉―篠本―千田―二川村高谷)
 小堤―木戸間(大総村小堤―東条村―水戸)
 栗山川荷物積卸場道(多古町―栗山川河岸間一町)
 東松崎―西田部間(東松崎―栗源村西田部)
 久賀―十余三間
 東松崎―小川土仏間
 
 「旧道図」の赤い路線は主要な道路であるが、その内でも〓の路線は佐原、佐倉、銚子、八日市場、上総方面へ至る幹線である。
 佐倉を経て江戸へ至る江戸道に沿って、染井に一里塚、芝山町白枡に二里塚、成田に三里塚があった。四里目は四の字を避けて法華塚といい遠山村(成田市)にあった。染井の一里塚は現在、その名残りの道祖神が国道二九六号線交差点付近の畑の中に祀られている。このあたり元は台地縁辺部であって、道路工事のため掘り崩し原状をとどめていないが、一里塚はその縁辺部にあったのである。
 この一里塚の基点は南中の日本寺であるとか、松崎神社であるともいわれている。里程からいえば日本寺説が有力であるが、なぜ日本寺を基点としたか、だれがそれを制定したのかは明らかでない。
 ところで嘉永五年七月ころ、南中村と南借当村で境界について争論が起きていて、その争点が『五十嵐家日記』に載せられているが、八日市場の吉田に至る道の両村境あたりに「往古は近辺人家有之、此所より中村宿え引移り候由、当時古宿と申す地名也」と古宿のことが書かれている。この事実だけから推測すると、古宿を通る道がより古い道かと考えられる。中村にはほかに、宿・横宿の地名があり、中村檀林などとの関係や、銚子・江戸往還の開通による交通量の変化のため、中世から近世にかけて宿の形成ないし移動が行われたものと考えられる。多古町域にはほかにも東松崎や飯笹に宿のつく地名があるが、それらはかつて発達した宿町や、そこを通過する当時の幹線道路がその地にあった証しといってよいであろう。
 寺作の東禅寺で湛睿和尚が講学していた鎌倉時代末期から南北朝時代の初めごろ、僧侶の金沢称名寺との往復がしきりであったが、その交通は金沢(横浜市)から千葉庄まで海路をとり、そこから直線で約四〇キロメートルの千田庄までは馬によっていたらしい。金沢文庫古文書には僧に馬を贈る記事が散見するというが、寺作から千葉庄へは道を西にとり飯笹の宿を通って行ったことが考えられるのである。
 このほか江戸時代、島村や千田村などの村明細帳に、「市場之儀は八日市場江三里」と書かれた市場への道や、佐原・小見川河岸への年貢運送の道など、産業・流通の道も重要である。
 「旧道図」には特に石造の道標と道祖神の所在も示してある。道標には二種類あって、分岐点で行く先を示した普通の道しるべと、方向の見当を周辺の都市名で示した、いわば方角標とでもいうべきものとがある。それらの内には庚申塔や西国四国巡礼塔(回国供養塔)に道しるべを兼ねたものがある。巡礼から帰った人々がその記念と道中無事の感謝をこめて造立したもので真言宗信仰圏にある。道祖神は道の神であるとともに境の神であって、健脚を祈願するなどの風習もあるが、災厄を村境で防ぐ願いをこめて村境に建てられていた。次節の「近世の石造物と金工品」の項に、道標等についてその造立年代と地域を表で示してある。現存している道標の最も古いものは寛延二年(一七四九)のもので南中に立っており、江戸時代に当町域に二〇基以上の道標が建てられている。その時々の幹線道路に建てられたはずであるから、道標の所在によって当時の幹線とその交通上の意味を明らかにすることができよう。

飯笹五辻の道標を兼ねた供養塔

 これらの道標・道祖神の所在によって古い道筋とともに、また古人の道に対する考え方をも知ることができよう。石造の道標は「近世の石造物と金工品」の第23表に示すとおり、江戸時代ばかりでなく明治以後、大正初年までにも多くが造立されている。これらを年代別にとらえ、その道筋を考察することも興味ある作業であろう。
 先に上げた四方への幹線の外に重要な道として成田道がある。江戸道はそれを兼ねてはいるが、一鍬田や前林(大栄町)を通る成田参詣道も通じていた。以上は民俗・宗教の道ということができる。
 「旧道図」に書き込まれた道筋の中には中世や古代からの道も含まれているはずである。今回「旧道図」を作ってみて、たとえば本三倉を通る古い佐原街道の道筋や、多古から十余三を経由して大栄町を通り佐原または神崎へ出る道も知ることができたことを記しておきたい。江戸道も「までいど」の坂を登って染井へ出、通称「一里塚」の道祖神の所で右へ折れ、佐野橋のところで現在の国道と斜めに交差し、喜多では「大海(だいかい)道」という小字のある坂を登り、三社神社の前へ出て、その後は国道とほぼ同じコースを行くようである(「旧道図」参照)。「までいど」の坂の分岐点に立つ道標は明治二十年のものであるが、「東多古、八日市場、てうし(銚子)、北十余三、さくら田、佐ハら、西三里塚、佐くら、東京」と記されている。

までいどの江戸道

 この「旧道図」を手掛かりに、近世、さらには中世・古代の道までも探る試みをそれぞれの地域で進めていただきたいものである。その中で古い地名の意味や、中村にあったという説のある匝瑳郡家の位置や、染井の一里塚の基点の問題などさまざまの事柄も解明の糸口が見つけられるのではないだろうか。