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一、日蓮宗檀林

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 江戸時代には、幕府は寺院をきびしく統制するとともに、他方では、各宗の学問、すなわち宗学を保護し奨励したので、宗派ごとの仏教の学問的研究は大いに発達した。各宗の本山、地方の有力寺院では宗学研究が進められ、学僧の教育機関が設置された。
 しかし宗学は定型化されたため、それに異議を唱えることは禁止され、他宗と論争することも固く禁じられた。日蓮宗の不受不施派だけでなく、真宗や天台宗でも論争を禁止される一派があった。そのために研究は精密になったが、創造的な教学活動は起こらなかった。
 日蓮宗と浄土宗とは中世にすでに談義所・檀林(談林)と呼ばれる教育機関をもっていた。それはその宗派の宗学を研究する機関でもあった。鎌倉時代に起こった諸宗はその時代の現実的要請にこたえて現われたので、いまだ確かな教学的裏付けをもっていなかった。そのために教学の確立が要求されたのであった。
 近世の初期、日蓮宗は関東八檀林、京都六檀林その他を設けた。浄土宗でも江戸五檀林、田舎十三檀林、合わせて関東十八檀林その他の機関を設置した。天台宗・真言宗も浄土宗の刺激を受けて関東十檀林を造るようになった。このほか比叡山・高野山や京都・鎌倉の五山のように、在来の教育機関が各宗派にあった。これらの中には単に仏典のみならず、儒学や国文学その他算学・天文まで学科目に含むところもあったから、江戸時代の僧には知識人が少なくなかった。
 日蓮宗の関東三檀林に数えられる南中村の中村檀林は慶長初期に創設された。詳しい説明は地域史編南中に譲るが、ここには江戸時代を通じて諸国から優秀な学徒が集まって研学に励んでいる。後に中山法華経寺の第九十九世、百五世貫首となった、多古村出身の玉樹院日栄(一七六九~一八四三)、林村出身の察遠院日正(一七八六~一八五四)もこの檀林に学んでいるように、中山法華経寺の歴代には中村檀林出身者が少なくない。

日本寺本堂(旧中村檀林講堂)

 日栄は中村檀林二百三十三世化主、京都本法寺四十四世を経て、中山の法灯を継いでいる。また日正は峯妙興寺四十八世となり、本堂・山門を修覆、書院・庫裡を再建して、同寺中興の祖を称され、中村檀林二百六十五世化主、京都本法寺四十六世を勤めた後、法華経寺の法灯を継承している。
 多古町域には中村檀林に先んじて永正年中(一五〇四~二〇)に創設された松崎檀林(顕実寺)や、おくれて寛永十四年(一六三七)に創設された玉造檀林(蓮華寺)があり、飯高檀林などとともにこの地方は日蓮宗学の隠れもない一大中心地をなしていた。