そのような宗教制度の中で起こったのが、日蓮宗不受不施派の法難であった。多古町域では江戸時代の初中期には島・中佐野・東台・大原の各村がほとんど村ぐるみ同派の信者であり、水戸・林から南玉造・坂などの村々にも信者がいた。
不受不施派が禁制の宗門とされたのは、寛文五年(一六六五)十月、すでに幕府から数度の弾圧を受けた後であった。この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても新風を吹きこんだのであった。
世界の主は一人であり、故に他宗信者の供養は受けずという思想が、時の為政者にとって、反抗ともとれる形で現われたのが、文禄四年(一五九五)に秀吉が行った千僧供養への辞退であった。
このとき、京都地方における不受不施布教の拠点であった妙覚寺の住職日奥は、教義に背くことはできないと参加を拒み、その上に、謗法とは法を誹(そし)るだけでなく、不信の供養を受けることは謗法に通じる、国主なればこそ布施を受けるべきではない、と「法華諌状」を秀吉へ提出して、丹波小泉に隠れ住んだ。
日奥は、京都町衆、辻家の生まれであったことから後援者も多く、この行動によって本来の教義に目覚めた信者が、千僧供養に出仕した寺々を見捨てたため、京都妙顕寺日紹などが異端邪説として日奥を排撃し、秀吉に訴えた。こうして両派の論争が続き、やがて慶長四年(一五九九)、大坂城中において、日奥と日紹の対論となった。「法華諫状」を受けた秀吉はそれを不問にしたが、同三年八月に死去し、代わって訴えを受けた家康は、民衆に与えた波紋の大きかったことから、日紹の説を正しいとし、日奥を邪説を唱える者として対馬へ流刑とした。対馬の日奥が、「今年は髪毛も抜け、残りも白髪となり」と、苦しい流刑の日々のことを書き送った書状が、多古町水戸の高岡家に残されている。
慶長十七年(一六一二)赦されて、京都に帰った日奥は、博多勝立寺日忠のはからいで日紹らとも和解がなり、元和九年(一六二三)には、京都所司代板倉勝重から不受不施公許の折紙を受けて、その抵抗は終結した。
桃山時代における不受不施派僧の受難は、多分に京都における日蓮宗の内紛によるもので、政府に協力して勢力の伸長を図る側と、教義の純粋さを守って教線を伸ばそうとする側の争いであった。
したがって、政権が江戸に移ると、関東が波立ち始め、日奥の主義を奉じた池上本門寺の日樹や中山法華経寺の日賢らは、寛永三年(一六二六)、江戸増上寺で営まれた二代将軍徳川秀忠夫人の葬儀に、諸宗の誦経が行われた席に参加はしても将軍の布施は受けなかった。しかし、身延山久遠寺の日遠らは、日奥の主義に異議をとなえ、その証しとして、布施を受けたのであった。
この日遠らを日樹が非難したことから、池上本門寺派と身延山久遠寺派が対立することになった。そして、対立の深まりを憂えた身延山主日暹(せん)が裁決を幕府に訴えたことから、寛永七年(一六三〇)二月、酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷において、いわゆる身池対論が行われた。出席したのは、不受不施派から本門寺日樹、中山法華経寺日賢、本土寺日弘、誕生寺日領、法華寺日進、中村檀林日充、受派からは久遠寺日乾・日遠・日暹、茂原日東、玉沢日尊、鶏冠井(かいで)心了院の両派各々六名で、幕府側からは聴き役として天海僧正・崇伝国師らが出席した。
この結果、日奥の主義を奉じた池上本門寺派は、またも敗れて邪道とされ、日樹は信州伊那に流され、日賢・日弘・日領・日充・日延らは追放された。
これまでの対立は両派の中心寺院の主導権争いとしての色彩が強かったので、末寺や一般信者に規制が及ぶことはなかった。度重なる弾圧によって記録は隠され、または消滅して詳しいことはわからないが、このとき池上側として呼び出された寺々の名をみても、多古町域の日蓮宗寺院はこのころすでに、中山法華経寺の末寺を中心にその大部分が不受不施派となっていたと思われる。
「寛永法難」と後にいわれるこの事件で、房総の不受不施派寺院のほとんどは改宗を誓って赦されるが、一般の信者までが改宗したわけではなかった。特に現在の多古町・栗源町・八日市場市地方における信者の信仰活動には大きな変化はなかったようである。
折から寛永十四年(一六三七)に島原の乱が起こり、武士ではなく、戦の体験のない農民が、信仰の力に支えられて団結したときの抵抗の根強さを目のあたりにした幕府は、先に設置した寺社奉行によって、キリシタンとともに邪宗といわれる宗派の弾圧を始めた。また「諸宗寺院法度」を各寺院に示して、一宗の法式を守れ、新義を立てて奇怪の法を説くな、幕府から御朱印手形を頂け、と命じた。これに対して、この法度は宗義に反するとして、改定を求めて上訴したのが、不受不施派の本土寺日述、妙覚寺日堯、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らであった。
幕府は邪宗を唱える者として、寛文五年(一六六五)十二月これを処罰し流罪にした。「寛文の惣滅」と呼ばれるこの事件から、キリシタンに対すると同様の弾圧が、一般信者にまで及んでくるようになった。
弾圧の影には、宗門の争いも絡んでいた。ある寺の住職が罪を受けて寺を追われると、反対派の身延系が幕府の支援を受けて住職を送り込み、そこで、いわゆる受派の宗域を拡大するという方式が採られていた。しかし元禄のころになると信者の信念が固くなったためか、受派の僧が寺に入ると檀家が離れるようになり、経営に行きづまるようになった。
受派からの申し入れもあって、元禄四年(一六九一)には、上総、下総一帯に弾圧が行われ、六九人の僧が伊豆七島へ流された。この時、召捕りに先だって、全住民について個人ごとに邪宗の信者であるかどうかを寺々に調査提出させた寺請証文がある。
寺請状之事
普門院
旦那衆 重右衛門 印
(以下十一名略)
一、右拾二人之者、代々真言宗にて、拙僧旦那に紛(まぎれ)無く御座候、若(もし)何方より、今度被二仰付一候、非留・不受不施・吉利支丹宗門と申す者御座候はゞ、何方迠も拙僧罷り出、急度申分け可レ仕候、為二後日一寺請状依而如レ件。
下総国香取郡大寺村本寺
龍尾寺
末寺松崎村 普門院 印
元禄四年(一六九一)未ノ五月十二日
内藤源助様御知行所
名主 長兵衛殿
組頭 重右衛門殿
同 庄右衛門殿
弾圧が一般信者にまで及んでくるようになると、不受不施派の信者は、表面から消えて地下に潜行した。一般信者は改宗誓約書を名主を経て提出して受派の寺の檀家となり、布施も出し供養も受ける。もっとも、不受不施派を称する寺は一掃されて一寺として存在しなかったから当然のことである。受派や他宗の寺は諸仏事のほか、行政の末端機関となって、檀徒一家の出生・死亡の記録、就職に当たっての身分の証明、旅行をするときの身元の証明なども寺院の仕事と定められていた。
それに対し不受不施派の信者は、各村ごとに庵を設けて、題目講と称して集まり、ひそかに巡回してくる不受不施派僧の法話を聞き、供養を受けた。この僧たちを同派では法中(ほうじゅう)という。法中は受派の寺で修業し、僧籍を取ると隠居して受派の寺を離れて組織に入り、たくみに弾圧の目を逃れ、各地の隠れ家や庵を移動しながら布教した。
各村の題目講には法立(ほうりゅう)という統率者がいて、法中移動の案内から、食事など身の周り一切の世話をした。布施は法立が受け取って、生活必需品を法中に渡す方法がとられた。この仕組みは現在でも守られていて、僧侶は肉食妻帯をせず、布施などの現金は寺役員が管理し、三食まで現物給付である。
内信(表面上、受派の寺の檀家になっている一般信者)―法立―法中の地下組織ができたころ、多古町域にどのくらいの庵があったかを断片的な資料からたどってみると、東台庵・坂村庵・船越庵・玉造庵・玉造東庵・島後口(うしろぐち)庵・島南庵、木戸庵(島)と、現在も不受不施信仰の続いている村々に多い。
弾圧はさらに続いて、元禄十一年(一六九八)には安房国が検索され、寛政に入ると下総へ探索の手が延びて、多古藩領を中心として大弾圧が行われた。これは史上「多古法難」と呼ばれているが、これについては『中佐野村日記』に記されているので地域史編中佐野の章に譲る。次に起きたのが「天保法難」で、以下に『下総法難記』(別名『天保十一子年宗門一件御裁許並(ならびに)荒増(あらまし)始末書之記』)から引用する。同書は天保九年(一八三八)島村はじめ香取郡を中心に一四八名の者が召し捕られ、取調べを受けた事件の始末書である。
宗門一件書記(かきしる)すあらましは、天保九年戊戌(つちのえいぬ)七月上旬、江戸表(おもて)小松屋文右衛門被(られ)二召捕一候風聞有レ之所、実事にて、同年八月廿八日多古村え御出役、関東御取締原戸一郎様御止宿にて、御尋に相成り、被二召捕一候者岩山村友右衛門、中佐野村宗之(ママ)、島村にて忠兵衛、勘之丞死去に付き伜(せがれ)貞治被レ尋候得共(そうらえども)不レ出。弟茂助多古村へ被二召捕一、又南隠居とて市郎左衛門被二召捕一、且(かつ)又、藤右衛門・三郎左衛門、都合七人多古村にて御調之上、市郎左衛門・茂助両人者相とめ残り、五人者江戸表差出しに相成り、御掛寺社御奉行牧野備前守様え被二召出一、浅草溜(だめ)へ被レ入、御吟味中、三郎左衛門者九月下旬に病死いたし、其後四人者出牢に相成り、藤右衛門者江戸宿伝通院前池田屋にて十一月上旬病死いたし、忠兵衛者翌年七月盆前帰村被二仰付一、又翌年子(ね)之三月下旬に内にて病死致し、右牧野備前守様御役替に相成り、松平伊賀守様え死去仮葬之趣相届候。無レ程四月下旬に相成り、又々関東御取締中山誠一郎様多古村え御出役にて、近郷村々並(ならびに)所々村々、諸々寺院方まで御呼出し、銘々村々御糺(ただし)口書(くちがき)之趣之簾(かど)々入二書附一、左之通り差上候。
〔注〕浅草溜は在牢中の重病人の収容施設。
一、村々口書之上げ証文。
一、寺院方口書之上げ証文。
一、当人共書上げ証文。
右文面者略す。
〔注〕上げ証文は、裁許に服すとき差し出す。請証文ともいう。口書は口上書。
右之上ゲ証文之印形取揃え御帰府被レ成候。同年六月下旬に村々銘々寺院方まで松平伊賀守様より御差紙にて被二召呼一、江戸宿者外神田御成道(そとかんだおなりみち)、柳原岩井町、代地大里屋茂兵衛、馬喰(ばくろ)町に弐三軒、小石川春日町大黒屋、右宿々に罷在り御呼出しを待ち候処、七月十日御呼出しにて、伊賀守様於二御白州(しらす)一銘々寺院方一同口書被二御読聞一、其上御書印願被二仰付一、帰村致し候。同年十一月中旬に又々御差紙を以て被二召出一、右宿に止留にて、十二月十六日御呼出し裁許被二仰渡一候。
〔注〕差紙は奉行所からの呼出し状。名をさして召喚するためにいう。
御糺に付き以二書附一申上げ候
安藤次右衛門知行所、下総国香取郡島村日蓮宗妙栄寺申上げ候。拙子檀中村長右衛門と申す者、御法度之不受不施宗門え帰依いたし、燈明料として銭廿四文、三拾弐文宛、村内藤右衛門方へ差出し、右之段今般御糺に付き初而承知仕り驚き入り候。是迄右之者儀墓参り其外仕来(しきた)り之通り、相替りの義無二御座一候に付き何之心付けも無レ之、乍レ併(しかしながら)檀中に右躰(てい)之者有レ之を不レ存罷在り候段、御差当て請け候而は申立様も無二御座一、恐入り候。此上檀中精々穿鑿(せんさく)仕り、右躰之宗門え携り不レ申候様可レ仕候間、何卒(なにとぞ)格別之以二御慈悲一御勘弁之御取斗(はから)ひ、偏(ひとへ)に願上げ候。
右御糺に付き申上げ候通り、少しも相違無二御座一候。
天保十一子五月 安藤次右衛門知行所
下総国香取郡島村
関東御取締御出役 妙栄寺
中山誠一郎殿
乍レ恐御糺に付き以二書附一奉二申上一候
安藤次右衛門知行所、下総国香取郡島村百姓三郎左衛門伜善蔵奉二申上一候。私祖父善蔵事蓮台義、不受不施宗門伝法受け相持ち候始末、御糺御座候所、右蓮台及二老衰一耳聞へ不レ申、言舌相分り兼(かね)候に付き、是迄見聞仕り候趣、善蔵奉二申上一候。
此段善蔵奉二申上一候、高弐石八斗所持仕り、親三郎左衛門義は去(さる)々戌年九月中御召捕に相成り、当時祖父蓮台、母、私兄弟とも家内七人暮し、農業渡世罷り在候。然(しか)る処、蓮台義当子(ね)九十弐歳に罷成り、今般御呼出し御見聞被二下置一候通り、殊之外老衰仕り、立居難二相成一、耳遠く言舌相分り不レ申、御糺之簾(かど)々聢(しか)と相分り兼候間、是迄見聞仕り候趣奉二申上一候。私宗旨之旦那に相違無二御座一候。右蓮台と申す名者廿七ケ年已(い)前、同人妻病死致し、墓碑建て候節、広宣寺より一同法名附け貰(もら)ひ候儀歟(か)、右不受不施宗門え帰依いたし候義は、先年何年頃に候哉(や)、村内百姓久蔵と申す者有レ之、此者より勧め帰依致し、同人等十七ケ年已前病死いたし、其後者村内百姓勘之丞・藤右衛門・私父三郎左衛門、三人にて重く信心仕り候。摂州東高津村法頭恵秀院日寛へ信心之者ども施物(せもつ)取集め遣(つかは)し候由にて、折々御当地福嶋町小松屋文右衛門方へ差遣し候義有レ之候処、元より蓮台義無筆にて、殊に老年に付き、何事も右三人へ任せ置き候義に付き、同人名前を以て如何(いか)様之儀取斗(はから)ひ候哉(や)不二相分一 偏(ひとへ)に難レ有宗門と心得、兼々信心致し候儀は相違無二御座一候。伝法を受け候哉否(やいな)や、難二相分一候得共、余人之申し勧め候儀等曽而(かつて)見聞仕り候儀無二御座一候。乍レ併、御制禁之宗門え帰依いたし候段、御吟味奉レ受候而者(ては)可二申立一様も無二御座一 奉二恐入一候。以来改宗為レ致、勿論家内一同右宗門え携り申す間敷(まじく)候間、何卒(なにとぞ)格別之以二御慈悲一御憐愍(びん)之御取斗(はから)ひ、偏(ひとへ)に奉二願上一候。
右御糺御座候所、蓮台老衰仕り分り兼候に付き、兼々見聞仕り候趣を以て、私名代にて此段奉二願上一候。
安藤次右衛門知行所
天保十一子年五月 日 下総国香取郡嶋村
祖父 善蔵事蓮台
百姓 三郎左衛門
伜 善蔵
差添(さしそへ)人
名主 又右衛門
組頭 新右衛門
関東御取締御出役
中山誠一郎様
言い渡された裁許の内容は、摂州(摂津国、大阪府)施王院日妙が遠島になるなどであった。以下、その請証文から多古町関係の主なものだけを掲載する。
一、友右衛門外百四拾三人、不受不施宗門御制禁を乍レ存相持ち候段不埒(ふらち)に候得共、御吟味之上回心いたし候儀に付き、証文被二仰付一候上、一同御構(かまひ)無二御座一候段被二仰渡一候。
〔注〕この一四四人中多古町域の村民は九三人である。
一、岩山村外村々名主組頭共儀、銘々村内之もの共御制禁之不受不施宗門信仰いたし候を不レ存罷在り候段、心得方不行届(ふゆきとどき)不埒に付き、名主者過料銭(ぜに)三貫文宛被二仰付一、組頭どもは急度(きっと)御叱り被レ置候。
一、浄妙寺日運外四拾七人儀、檀家之者共祖父親已来密(ひそか)に不受不施宗門信仰致し候を不レ存罷在り候段、菩提寺に住職いたし宗旨請合(うけあひ)候詮無レ之不埒に付き、一同逼塞(ひっそく)被二仰付一候。
一、福島町権兵衛店(だな)文右衛門儀、不受不施宗門者重き御制禁之段乍レ弁(わきまへ)、年来右宗意相持ち候。其上、下総国嶋村勘之丞事善休任レ申、摂州東高津村衆妙庵えの法用、其外諸文通等此もの名前を以て取遣(次カ)致し、剰(あまつさ)へ吟味に相成り候而も、他宗には難レ改、受不施之日蓮宗に改派いたし度(たき)旨之申分難レ立、右始末不届に付き、存命に候得者遠嶋被二仰付一候。
右之始末可レ被二仰付一処、銘々病死いたし、河州(河内国)北条村長光寺(光長寺カ)日慎、無宿清左衛門、下総国嶋村三郎左衛門・藤右衛門・忠兵衛者御吟味中病死いたし候間、其旨可レ存段被二仰渡一候。(以下三条省略)
右被二仰渡一之趣、一同承知奉レ畏(おそれ)候。且(かつ)過料銭三日之内に当御奉行所え可二相納一旨被二仰渡一、是又承知奉レ畏候。若(もし)相背(そむ)き候はゞ重科可二仰付一候。依而(よって)御請(うけ)証文差上げ申す処如レ件。
(署名省略)
天保十一年子十二月十六日寺社御奉行所
多古町域でこの事件に関係して以上のような請証文を差し出したのは、東台村九名、中佐野村一〇名(内女性三名、百姓兼医師一名)、船越村七名、大原村三名、北中村一五名(内女性二名)、南中村三名、本三倉村二名(女性)、林村三名、多古村九名(内女性一名)、島村三二名(内死亡一名、百姓兼医師一名、女性二名)、合計九三名。香取郡では沢村・助沢村・大堀村・篠本村・万力村・飯塚村・佐原村・荒北村・小川村・高萩村・福田村・吉田村・金原村・岩部村、上総国では武射郡境村・岩山村で合計四七名、その他で四名であった。またこれらの村々の日蓮宗各寺も証文を出している。
〔注〕請証文の署名のうち中佐野村の分が二〇三ページに掲出してあるので参照されたい。
差上申す御請書之事
一、今般私共儀不受不施宗門一件に付き被二召出一、御吟味之上被二仰渡一、相済み候に付、帰村被二仰付一難レ有仕合せに奉レ存候。然(しか)る上者、追而(おって)村方え御出役様被レ成二御越一、当人共へは回心証文被二仰付一候砌(みぎり)、印形(いんぎょう)差上げ候様被二仰渡一奉レ畏候。依而右被二仰渡一之趣相守り、印形差上げ候様可レ仕候。依レ之御請書差上げ申し候処如レ件。
安藤次右衛門知行所
天保十一年子十二月十九日 下総国香取郡嶋村
当人惣代 平兵衛 印
同 新右衛門 印
組頭 重郎兵衛 印
寺社御奉行所 同 弥丘衛 印
さらに彼らの止宿先の江戸の旅籠屋も請書を提出している。
差上申す御請書之事
一、今般不受不施宗門一件に付き、寺院方夫々(それぞれ)に被二召出一、御吟味之上逼塞被二仰付一、然る処帰村被二仰渡一候間、帰村之上銘々相慎み罷在り候様、私方止宿下総国香取郡多古村、日蓮宗浄妙寺日運外拾七人え可二申遣一段被二仰渡一奉レ畏候。依レ之御請書差上げ申す処如レ件。
天保十一年子十二月十九日 大黒屋茂兵衛
寺社御奉行所
このようにそれぞれ請書を差し出すことによって当事者は帰村が許され、次のように一件は落着した。
御寺院方逼塞(ひっそく)之科被二仰付一候而罷在り候処 明る壬丑(みずのえうし)正月中旬に不レ残御差紙にて被二召出一、右科御免有レ之、下旬には村々え帰村致し候事。
且又、右証文被二仰付一候村々銘々、同年七月上旬に関東御取締小川半蔵様、長谷村玄庵館へ御止宿にて被二呼出一、銘々御証文之印形被レ為(させ)レ致、村々帰村仕り候而相済み候。
(『下総法難記』)
不受不施派に対する「天保法難」の弾圧は、これで終わるのであるが、この取調べによって、地下組織の内容、連絡方法などのすべてが幕府に知られてしまった。指導者を失った上に連絡網を断たれ、回心証文を出して改宗を誓った内信たちは再び地下組織を作ることはなかった。
弾圧の跡をとどめる島の墓地
旗本知行地であったため取締がきびしくなかったことと、島村のように探索者が入りにくい要害の自然条件があったこともあって当地の法燈は長く護られてきたということができよう。
不受不施派研究家の加川治良氏は、『房総禁制宗門史』において、「天保法難」の発端は、幕府の探索によって発覚したものではなく、不受不施派の公許と、流罪にされた法中の赦(しゃ)免を願って、水戸徳川家斉昭公に駕籠訴したことにあるとされている。また、同じく幕府に禁じられた宗教ではあるが、たとえばキリシタンのように、完全に地下に潜んで信仰していた宗教とは異なり、「天下諫暁」という使命感に基づいて公然と幕府に上書し続けたことが、たび重なる弾圧を受けた原因であるとも書かれている。
なお、請書を出した寺の内、島村の日蓮宗七カ寺は「無住に付き兼帯」と付記されている。七カ寺は受派の寺で、島村には多すぎる数であるが、これは受派が不受不施派の強い土地を改宗させるために設けた教線だったのであろう。しかもこの時期にすべて無住であったという事実は、何を物語るものであろうか。
「天保法難」で組織の壊滅した不受不施派は、積極的な回復運動を起こすことはできなかった。宗法を継いだのは比叡山遊学中であった照光院日恵ただ一人であり、その回復運動は日恵の弟子、宣妙院日正と、三宅島からもどった日妙の明治二年の働きを待たなければならなかった。
しかし、日正らの再興願や、各地の内信たちが出した復宗届に対しては日蓮宗勝劣・一致二派管長の反対があり、また、信仰の自由は政府が認めた宗派にのみ許されるものであるとして却下されたのであった。
多古町域では明治七年に、日正の弟子義良が、南中村柴田長右衛門、島村戸村藤右衛門を復宗させたことから、復宗運動が始まり、明治八年には水戸村法眼寺住職を相手として、高岡半兵衛・青木与左衛門・平山治郎兵衛・平山四郎兵衛・平山善兵衛・小川久右衛門・関新左衛門らが宗論を行い、その結果復宗することになった。
明治九年四月十日、宗門再興運動は結実し、日蓮宗不受不施派として派名再興が許され、白日の下を歩みだすと、岡山県御津町の龍華山妙覚寺を本山として、翌年四月二十一日に島村教会所が、同十四年十月二日には玉造教会所が設立され、以後現在に続いている。