日蓮宗の中山門流は室町時代、胤貞流千田氏の衰退によって強力な外護(げご)者を失って、その活動も一時停滞し、いわゆる一円法華は千田庄では東・南部にとどまった。一方、多古町域の北・西部では、井戸山、水戸ないし喜多以北の地は真言宗の信仰地帯として確保された。その中心となったのは、かつて鎌倉時代末期から南北朝初期に金沢称名寺の学僧湛睿(たんえ)を迎え教学の道場として栄えた土橋山東禅寺であったと思われる。東禅寺はしかし千田庄の動乱にまきこまれ、また度重なる火災によって衰退に向かっていた。ことに江戸時代に入ると、徳川家康から与えられた朱印状を貞享年中(一六八四~八八)の火災によって堂塔のすべてとともに焼亡してしまい、寺地数十石を没収されてしまった。
こうした過程で近郷の末寺はそのもとを離れてゆき、東禅寺自体も虫生(光町)の広済寺の末寺に入ることになった。しかし元禄九年(一六九六)には、御所台村の並木七郎右衛門によって、一族および九カ村の念仏衆のため、その前亡後滅の霊魂が脱苦徳楽を得られるよう願って梵鐘が寄進されている。九カ村とは後に久賀村となる近郷九カ村のことであろう。衰えたりとはいえ東禅寺はまだ近郷一帯の信仰の中心であり続けたのであった。
今は荒れ果てた東禅寺に、往時の面影を伝える唯一の記念物として、一基の石の標柱が入口石階の右手に立っている。その表には、
とあり、左右側面には、
阿(あ)り明けに隈(くま)なき月のてらざくや 弥陀のじゃうどへわたすつちはし
宝暦六年丙子三月吉日 願主法印浄性
と彫られている。都(兜(と))率(そつ)天は仏教の世界観でいう六欲天(天上界)の第四位で内院・外院があり、内院は弥勒菩薩(みろくぼさつ)が住み、常に説法している所といわれる。死後、都率浄土に上生して弥勒の化(け)導にあずかろうとする信仰は、平安時代、阿弥陀仏に祈って極楽往生を願う浄土教の信仰が盛んになる以前や、浄土教の隆盛に対抗して鎌倉時代に行われたが、阿弥陀信仰ほどには一般化しなかった。その内院には四九院があって、第四九番が常行律儀院である。宝暦六年(一七五六)当時の衰退した東禅寺になお寺をその常行律儀院に擬する願いを持った僧がいたのであった。この浄性という人物は、荻野三七彦博士が東禅寺を訪れた際に堂内で見付けられた『十一面観音講式』(一巻)の奥書に「宝暦六年、東禅寺二十三世位法印浄性」と記した人であり、石標を建てた同じ年の講式(讃文)であることが注目される。
東禅寺石標
奈良時代、行基は畿内に四九院を建立し都率内院に擬したというが、同じような擬四九院が関東にもあったのであろうか。前記九カ村の寺が発起人となり、海上・匝瑳・香取三郡にわたって真言・天台・禅宗の八八カ寺を巡礼する札打(ふだぶ)ちの行事が古くからこの地方で行われてきた。また、他の村々でも十善講といって続けられている(地域史編次浦・一鍬田参照)。石標側面の一首はそのような巡礼の御詠歌であろうか。光明遍照の「月の寺」と掛けて寺作の地を詠嘆し、衆生を浄土へ導き渡す橋として土橋山をうたった技巧もさることながら、その澄んだ調べには御詠歌調を越えて寺跡を月光によって永遠に荘厳(しょうごん)するかのように思わせるものがある。
この東禅寺の不動明王を修業中の念持仏としていた大門成就(じょうじゅ)院の木食(もくじき)俊弁上人が、七十歳で寺の後丘の石室に入定し、即身成仏したのは、東禅寺石標の建てられた年よりも十九年前の元文二年(一七三七)のことであった(地域史編大門参照)。上人は五十三歳のときから五穀を絶ち、木の実を食して諸国を行脚(あんぎゃ)しているが、宗教者としての精神を高めるとともに庶民を煩(ぼん)悩から救済することに全霊を傾けたのちの入定であった。
木食とは木食戒を守る僧のことで真言宗で多く行われる。真言宗の僧と入定との関係は、空海が世を去って一世紀近くたってから、醍醐天皇から弘法大師と諡名(おくりな)され、使僧がその霊廟を開扉すると空海が生前の入定の姿のままであったので髪やひげを剃り衣を替えたといわれ、この時から大師入定信仰が始まっている。この信仰は、空海が肉身を捨てたのではなく、死後も生きた姿で衆生済度を続けているというものである。
東禅寺は明治以後、堂守もなく荒れるにまかされたが、その堂内から不動明王を含む仏像四体の破体が蒐集され、今は成就院に安置されている。東禅寺の廃滅に拍車をかけたのは幕末に起こった排仏論、明治初期の神仏分離令と廃仏毀(き)釈の嵐であったと思われる。
成就院に安置された東禅寺の阿弥陀如来
全国的なそのような空気の中で、井戸山では真言宗四カ寺が一寺に整理された。神仏習合性の強い真言、または天台系の修験の寺にはその圧力が強かったのであろう、次浦薬師寺、谷三倉無量寺が廃寺となっている。
第22表は本書下巻末の「社寺一覧」から集計したものである。移転とあるのはすべて町外へ引き移した寺である。日蓮宗寺院では、明治になって不受不施派(妙法華宗)が公許となり、島正覚寺が開創されるとともに、同地にあった受派の七カ寺が廃寺(内一カ寺は町外移転)となっている。
第22表 多古町寺院変遷表(昭和60年現在) | ||||
現在 | 廃寺 | 合併 | 移転 | |
日蓮宗 | 30 | 14 | 6 | 4 |
真言宗 | 11 | 6 | 4 | 0 |
天台宗 | 1 | 0 | 0 | 0 |
曹洞宗 | 1 | 0 | 0 | 0 |
修験 | 0 | 2 | 0 | 0 |
宗派不明 | 0 | 16 | 1 | 0 |
合計 | 43 | 38 | 11 | 4 |
また宗派不明の中には、近世初頭、多古村にあった一四坊(文禄二年の名寄帳所収)の、後に寺となったものが含まれている。これらの寺の内には日蓮宗であったことの明らかなものが六カ寺あり、残りの八カ寺もおそらく日蓮宗であったか、または後に日蓮宗に改宗したものと思われるが、記録がないので宗派不明とした。一四坊の中には、法性寺が元は南陽坊と称し天照山大宮大神の別当寺であったように修験者の坊もあったと思われるが、多くの坊は妙薬寺、妙光寺その他日蓮宗の寺院の属坊ないしは門徒組織の講坊であったかと思われる。
ただしそれらの中で中山法華経寺の末寺であったものは限られている。文禄三年(一五九四)の『法華経寺四院主連署回状』に末寺として上っているのは、多古町域では南中村峯妙興寺、同西谷唯心院、同唐竹林常林房、玉造妙頂寺、松崎常寂院、染井正光院、多古性(正)徳院(後の法福寺)、同妙益寺(広沼)、島大通院、飯土井実成坊である。
以上のほかに慶長十一年(一六〇六)の法華経寺『本末連判帳』に同じく上っているのは、多古正乗坊(後の真弘寺)、同教行院、南中村西谷北之坊などである(以上『中山法華経寺史料』による)。
文禄二年の多古村一四坊のうちには中山法華経寺の末寺が意外に少ないのである。明和四年(一七六七)に多古村の全寺は、真言より法華に改宗したという記録もあるので、その時期まで真言の寺坊は少なくなかったと見られる。あるいは修験者の坊も南陽坊以外にかなりあったのであろうか。
なお高野山教学中興の祖といわれる覚鑁(かくばん)によって開かれた新義真言宗は、豊臣秀吉の根来(ねごろ)攻めによって豊山(ぶざん)派と智山派に分かれたが、当町の真言宗寺院は現在智山派九、豊山派一、室生(むろう)寺派一である。