俳諧を芸術として大成し、蕉風または正風と呼ばれる芸風を確立した松尾芭蕉の高弟で、蕉門十哲の一人に数えられる採荼(だ)庵、杉山杉風(さんぷう)(一六四七~一七三二)は、手賀沼に魚鳥捕獲権や四町七反余の田畑を持っていたためもあってか下総とは関係が深かったが、当地方と直接関係のあったのは、杉風の弟子で宝井其角にも学んだ江戸の白兎園(はくとえん)中川宗瑞(そうずい)一叟(そう)(一六八五~一七四四)であった。
御所台村の名主並木七郎右衛門は寂阿一叟と号し宗瑞に学んだが、白兎園代々の内で最も傑出していたとされる二世の広岡宗瑞一叟の別号飛鳥園を継いでいる。それ以後、飛鳥園の俳系は当地方で受け継がれ、現代まで当地の俳壇を形成することになった。次の系図は『大日本人名辞書』(講談社)を参考にして杉風の俳系を飛鳥園本位に構成したものである。同辞書がその俳家系図の芭蕉門人俳系の項で、並木寂阿を飛鳥園一世としているのは理由のないことではないが、寂阿を継いだ船越村の宇井貞翁の墓碑に刻まれたその履歴にも、寂阿を二世、貞翁を三世としているので本書もそれに従った。
飛鳥園の社中は多古町・芝山町・八日市場市一帯に分布しているが、貞翁の墓碑を建てた人々の刻字を見ると、多古町域では多古・島・水戸・石成・東台・大原・船越・牛尾・御所台・井戸山・中村にわたっている。この中には貞翁の私塾の筆子も含まれているだろうが、そのほとんどは飛鳥園関係の人々と見られ、初期の飛鳥園社中の広がりを見ることができる。
飛鳥園二世、寂阿一叟、並木七郎右衛門(一七三四~一八〇一)は別号に麦蒔舎(ばくじしゃ)、兎什(とじゅう)、芦(ろ)風坊その他があり、飛鳥園を譲って後は南無(なむ)坊を号している。
同じ宗瑞門で下総の人、志継坊風陽とともに江戸の師を訪ねた記念に両人が編集した俳諧撰集『先手後手』は明和四年(一七六七)の冬、江戸の西村源六によって出版された。序文を同門で岩部村大乗寺の俳僧茂蘭(啄木庵一世)が記し、江戸俳壇の大家大島蓼太(りょうた)が跋(ばつ)を寄せている。上巻は二人の江都旅宿日記に始まり、かつて茂蘭が加賀行脚(あんぎゃ)中に入手したという「葛城(かつらぎ)山の吟」などの芭蕉の俳文や、宗瑞に選評を仰いだ碁立(ごだて)十一番句合(くあわせ)、俳三昧の「鴉(からす)の賦」、白兎山人の俳文「鷺(さぎ)の対(つい)」、宗瑞・風陽・兎什の三吟などを収め、下巻には白兎園関係俳人の四季の発句を集録している。
井戸山大師堂には寺作東禅寺から移された二基の芭蕉句碑がある。寛政八年(一七九六)刊行の『すみれ塚集』は、その一基「山路来て」の碑を建てた際の記念に飛鳥園社中の句を集めたものである。また寂阿の立句(たてく)で歌仙を巻いた『北総揺松(ゆるぎまつ)集』(寛政一二)は、八日市場市安久山にあった揺松の伝説にちなんで興行されたもので、多古町域では多古・東台・一鍬田・船越・次浦・御所台・東松崎・方田・南玉造・中村などの俳人約四〇名が参加しており、諸国俳人の松の発句なども収められている(『近世俳諧資料集成』所収)。寂阿には他に杉家俳諧選集稿本『草庵集』二巻の編もある。
寂阿の作品には、芭蕉の「古池や」の句碑碑陰の「氷(凍)らぬは氷らで寒し水の音 二世一叟」辞世句碑の「ほとゝぎすいでや明かるき西の空 南無坊寂阿」のほか「梅柳はや月影も見初めける」、「さくら/\いかに外山(とやま)の初桜」などがある。
寂阿辞世句碑(井戸山大師堂)
飛鳥園三世貞翁一叟、宇井治喜、後に佐富(一七五〇~一八一七)は船越村の医師で、別号に吟竹・和什・二国坊叟明・木賊(とくさ)庵・天随翁などがある。寛政十三年(一八〇一)二世より嗣号を受け、その年(改元して享和元年)『寂阿追善集』を編集出版している。作品には井戸山大師堂の芭蕉句碑碑陰の「夕暮は空に声あれ鐘に雲」、船越妙立寺の句碑「辞世 われ仏雪にも仏有るものを」のほか「紅もはてある芥子(けし)の夕べかな」などがある。
飛鳥園四世天堂一叟、鈴木直右衛門(一七七七~一八五七)は下吹入(芝山町)の人であるが、三世貞翁の追善集『雪の仏』、遺稿集『花筐(はながたみ)』の編がある。なお彼の自筆稿本『芭蕉桃青翁御正伝記』四冊(天理図書館・綿屋文庫蔵)は芭蕉研究上に貴重な文献とされている。
飛鳥園五世貞哉(貞斎)一叟、宇井求馬金敬(もとめかねたか)(一七九三~一八五八)は三世貞翁の孫で同じく医師であった。別号に徳佐庵・雲郷・山雅道人その他がある。その著に『蟻(あり)塚集遊日抜蘂(ずい)』がある。作品に「海のない国をかぞへて月見かな」、辞世「空蝉(うつせみ)や今真ごころの法(のり)の声」などがある。
飛鳥園六世随世一叟、藤田清兵衛(~一八六一)は殿辺田(芝山町)の人。同七世西翁一叟、飯田左内(~一八六七か)は内山(八日市場市)の人で、西湖庵兎什とも号した。
飛鳥園八世鳳寿一叟、里見誠郷金童(一八二四~八九)は医師で、五世貞哉の嫡子であるが、故あって里見を称した。四世二国坊を継ぎ二国坊兎什、後に二国堂を称した。作品に「夏の月柱に登る蝸牛(かたつむり)」、「旅絵師の心を尽す千松島」がある。飛鳥園はその後、明治・大正と受け継がれ連綿と現代に続いている。
飛鳥園社中の人々については、嘉永五年(一八五二)芝山観音教寺に五世貞哉が建てた「杉家歴代」と題した句碑を見るのが便利で、次の句が選ばれて碑面に構成されている。
飛鳥園では、宗瑞以後みな一叟の称を継いでいるので「飛鳥園一叟」とだけでは何世かわからないが、排列順からいっても一世の広岡宗瑞でなければならない。そうすると広岡宗瑞は白兎園と飛鳥園の号で二句採られていることになるが、飛鳥園の始祖であるためと思われる。同碑の裏面には「杉家故名俳士」として当時すでに物故していた二九名の俳人名が刻まれており、その中に多古町関係では次の人々がいる。
玉造・竹兎園風葉、御所台・養老庵心臧、多古・倚(い)亭之桂、中村・露艸(草)庵呂叟、同・紫蘭斎和十、牛尾・一律庵石腸、大原・柏庭寿仙、多古・魯園貫斎、飯笹・春迎舎一遊。
竹兎園一世は南玉造の富沢茂嘉(~一八〇九)、号可雲で、風葉はその三世富沢加佐である。風葉の句碑「冷(ひえ)氷るまでもゆかしき修行かな」が南玉造バス停傍にある。倚亭之桂(一七九九~一八六一)は居射の人平山勘兵衛で、天保十一年(一八四〇)『藤の辻』の編がある。露艸庵呂叟(一七三一~九一)は原靖休(やすよし)、日向延岡出身の武士で、露艸庵社中の建てた句碑「行(ゆく)雲のやうにきえたきねがひ哉」が日本寺境内墓地にある。学問技芸に堪能で、百名を越える門下がこの地にいたという。また、「故名俳士」に名を連ねている佐原の桃斎兎郷(本城氏)に入門した桧木村名主小川伊右衛門は後に二世桃斎を継いでいる。
次浦永台寺の弘化四年(一八四七)の芭蕉句碑の裏には晴軒南斗(~一八四七、佐藤氏)の辞世句「いざさらばかねて望みの秋の雲」が刻まれている。同寺にはその門下随巣敬義(藤崎氏)の辞世「時鳥(ほととぎす)まつや心の解けて後」を記した墓碑や、「咲いてさへ淋しきものよ苔(こけ)の花」という淇奥(きおう)庵竹茂(佐藤氏)(一七九六~一八七八)の句碑もある。随巣敬義は随巣羽人(一七八四~一八七一)を継いだ人ではないが、羽人から古今伝授を受けたらしく、貞翁・貞哉・羽人と受け継がれた切紙の『歌道神秘三鳥奥義』の伝授を受けている。古今伝授は『古今和歌集』の解釈などに関する秘伝で、口伝と切紙伝授とがある。三鳥(喚(よぶ)子鳥・百(もも)千鳥・稲負(いなおおせ)鳥)と三木が有名で、古今伝授すなわち三木三鳥と考えられていた。一条兼良の『古今三鳥剪紙(きりがみ)伝授』、戸田茂睡の『古今集三木三鳥之大事』などが著名である。
『歌道神秘三鳥奥義』奥書
江戸時代の飛鳥園社中にはほかにも多くの作者の名が知られているが以上でとどめておく。
なお作風などから飛鳥園以外の系統と思われる俳人で特に注目されるのは、多古藩主松平氏の俳諧の師であった文喜堂風衣と染井の寺子屋師匠であった〓我堂義得である。風衣は南玉造の出身であるらしいが、本名や経歴も不明である。その著に『磯の家集』(嘉永二年刊)があり、作品に「稲妻や葉裏の虫の葉を落つる」「草ふめば残る暑さの匂ひかな」「秋の蚊に送りこまるる戸口かな」など秀句が多い。
また、染井妙暹(せん)寺の明治二年正月建立の墓碑に辞世の「まぼろしや枕にはなの散れる影」を残している義得(平山源兵衛)は「京都室町殿小川中納言藤原家嫡男」と碑銘にあり、その作風と出身地から蕪村の流れをくむように推測される。
多古町域には江戸時代五基もの芭蕉句碑が建てられている。当地の飛鳥園の人々は自ら杉家の正風を称しているためもあろうか。飛鳥園一・二世の師である中川宗瑞は正徳・享保(一七一一~三六)のころ俳諧が通俗化し、点取り俳諧、洒落(しゃれ)風、譬喩(ひゆ)俳諧が江戸俳壇を風靡(び)したのを改めようと、同志とともに批判の書『五色墨(しきずみ)』を刊行して改革運動を起こしている。実作面では成功しなかったが、それ以後の蕉風復興に向かう機運を生みだしたものとして、この運動は後世の評価を受けている。この影響は飛鳥園にも及んだものと考えられる。
当町域の芭蕉句碑に選ばれた句を、句柄の変化が興味深いので建立年代順に記しておく。
山路来て何やらゆかしすみれ草(井戸山大師、飛鳥園二世建立)寛政八(一七九六)
古池や蛙とびこむ水の音(井戸山大師、園老黍堂書)文政六(一八二三)
ほろほろと山吹ちるや滝の音(船越大立寺、山辺百川建立)天保六(一八三五)
雲折々人を休(やすむ)る月見哉(南並木道祖神わき、梅堂・蘭香ほか建立)天保一二(一八四一)
涅槃会(ねはんゑ)や皺(しわ)手合(あは)する珠数の音(次浦永台寺、佐藤南斗建立)弘化四(一八四七)
木のもとにしるもなますも桜かな(玉造招魂碑、富沢雪堂ほか建立)大正七年(一九一八)
なお飛鳥園三世建立のものが芝山観音教寺にある。
観音のいらか見やりつはなの雲 文化七(一八一〇)
以上の芭蕉句碑のほかに当町域には江戸時代の句碑は三基あり、最も古いものは享和元年(一八〇一)に門人が建てた前掲の寂阿辞世の句碑である。
終わりに『俳句講座1俳諧史』(明治書院、昭三四)の中の「化政俳諧史」(大礒義雄氏執筆)において、当地の俳人たちがどのように扱われているかを見ておきたい。その第二節「江戸俳壇と関東俳壇」の(九)「関東俳壇の人々」に下総の項がある。佐原の今泉恒丸、次いでその門人青野太笻(たきょう)(小南、現在東庄町)の『俳諧発句題叢』、曽我野の下河原雨塘(うとう)に触れた後、「下総香取には宗瑞門で飛鳥園二世を名乗る寂阿一叟がおり、その四世に上総武射郡の天堂一叟がある。編著に『芭蕉桃青翁御正伝記』、『七部十寸鏡(ますかがみ)』(七部集注解)など」と述べている。この後、安房の井上杉長(さんちょう)をあげ、結びに四句、恒丸・太笻・雨塘・杉長の作を載せている。当地の飛鳥園の人々は、盛んであった文化・文政期の地方俳壇の一角を占め、庶民の言語文化の興隆に業績があったものといえよう。
なお杉長は前掲の俳系図に示したように平山梅人門で、梅人(三河田原藩士)は杉風に始まる採荼庵の二世を継いでいる。房総における杉風の俳系はこの杉長の採荼庵系と寂阿の飛鳥園系、それに前出の釈茂蘭の啄木庵系(香取郡北部)に分かれている。