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村の起源

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 各集落の扉裏にある航空写真は、いずれも昭和五十八年十一月に撮影したものである。

 

 かつて次浦村と称したこの集落は、現多古町役場から東北東へ約六キロ。東は栗山川を境に坂並、西は大門・出沼、南は西古内、北は小三倉の各集落に接する丘陵地帯に、一〇〇戸あまりの世帯に四七〇余人の人口を有し、当町においては屈指の大集落に属する。昭和二十九年の町村合併前は、旧久賀村の中心地として、久賀村の主要な公的機関のほとんどはこの集落に置かれた。
 次浦は集落の起源を、第十三代成務天皇の代(一三一~一九〇)とする説もあるが、これを裏付ける確証はなく、遺物遺跡も発見されていない。
 集落名のいわれについては、高名な地理学者清宮秀堅が著書『下総国旧事考』の中で、次のように述べている。
 『和名鈔』に珠浦(たまうら)という地名あり、古語ではス浦(うら)と読む。ス浦が長い間に転化して次浦となったのであろうと。また珠浦の村名は、金沢文庫の文書にも、しばしば現われている。これらのことから、奈良時代にス浦と呼ばれていたものが、鎌倉時代以後、次第に次浦と呼ばれるようになったものといえよう。
 ではいつ頃から、人間がこの土地に住むようになったかということであるが、幾組かの集団が住み、共同社会を形成した時代について、これを明確に伝えるものの一つとして、堂山墓地(字谷一八三六)にある「永仁三年(一二九五)十月十四日」、また「元応二年(一三二〇)」と刻まれた二枚の板碑がある。

堂山墓地板碑

 板碑が現存するということは、その頃すでに、立派な板碑を祖先供養のために造り得る人たちが住んでいたということである。すなわち、かなり以前から人々が定住していたという証左の一つである。
 しかしこれとは別に、古来からの語り伝えと、支配者名などから推理した説がある。
 その説によれば、「次浦字木の根田、通称御山台と呼ばれている一角に人間が住みつき、耕地の開拓が進むにつれて、次浦・大門・西古内に別れていったのである」といい、さらに「その証拠として、字木の根田の隣接地通称『くぼどの』(字大峯二一九八―一番地)に住居跡があり、字木の根田地内には大門・西古内の個人の氏神が祀られてある」ということである。
 北総の開発者であり、また一大支配者でもあった千葉氏一族は、自らが開拓支配した場所の地名を自分の姓とする習わしがあるが、千葉氏系図に、次浦八郎常盛と名乗る人物が記載されている。この八郎常盛を、神代本千葉系図に求めると、第二代千葉介常兼の弟であるが、出生事跡の詳細が記されていない。そこで兄常兼の項によって推察すれば、常兼は寛徳二年(一〇四五)の出生で、「後三年の役(一〇八三~八七)源義家の軍に属して大功あり云々」とあることから、この頃の習わしとしておそらく八郎常盛も兄と同じ行動を取ったものと思われる。
 一方この戦に関係する伝説として、字「前畑」一五五五番に塚があって、これは「八幡太郎義家矢挿の塚」といわれている。『香取郡誌』には「永承年中(一〇四六~五二)源頼義・義家父子、阿部頼時其子貞任を討ち凱旋の途次上総海岸に上陸、征矢百本を取り里毎に一矢を挿し、九十九里に至りて止り、其の残矢一本を此の地に留埋す」とある。
 これらの事柄から前九年の役の頃(一〇五一~六二)末期に字「くぼどの」に居を構えた千葉支族の次浦八郎常盛が、一族とともに組織的に開拓を始め、後三年の役には、源義家軍の武将として参戦し、出陣の折に戦勝を祈願してか、あるいは、戦勝記念として築いたのが、この矢挿塚であろう。